快・不快原則で最も大事な”結果”とは
「最終的に動機形成して実行すること」であり、実際企画の成功の是非ではありません。
その行動に、モチベーション化したリビドーを消費できればそれでOKなんです。
言い換えりゃ、(失敗だろうとなんだろうと)動機形成された行為によって、哺乳類として過剰なリビドーを燃やして代謝できればそれでOKなんです。
(極論成功するとか失敗するとか、心理的健康に関しては”全く無関係”である)
だったら何でこんな自分にとって不利益でしかないことをやらかしてしまうのか?
(ちなみに”鬱構造”は誰にだって少なからず起きているし起きることです)
■「自分自身を監獄に収監すること」
典型例は
「どうせ僕なんか何をしても無駄だ」
(根拠となるのは認知の正確性の怪しい《現実認知のデッサン能力の事》”コンプレックス”である)
前回説明のとおりで、
「監獄の心理」に陥ると、身近な”いいこと”を何も考えられなくなります。
(そりゃ独房生活でも「明日の食事にプリンは出るかな?」みたいなプチ幸福はあるでしょう、しかしこのスケールでは膨大に行く場を失うリビドーを代謝できない《これを虚しいと呼びます》)
しかし、脳は何が何でもこれを代謝しなければならない、
同時に”一時的欲求が断念されるため”、この裏返しの欲求は「反動形成」によってエスカレートします(復讐倍返しの法則)。
「極端によからぬことばかり想像してしまう」(これが鬱心理)
どうしてこんな心理に陥ってしまうのか?
冒頭括弧に書いたように、
「根拠となるのは認知の正確性の怪しい(現実認知のデッサン能力の事)”コンプレックス”」
これは”根拠”に過ぎません。
コンプレックス(複合心理)ってのは直接の原因では無い(キッカケに近いかな)。
原因の典型例は「トラウマ」でしょう(鬱現象の始まりは”イップス”)。
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しかし上記は原則と決定的に矛盾してしまうんです
(失敗だろうとなんだろうと)動機形成された行為によって、哺乳類として過剰なリビドーを燃やして代謝できればそれでOKなんです。
(極論成功するとか失敗するとか、心理的健康に関しては”全く無関係”である)
人類ヒト科の心理経済としては、「《心的外傷はともかく》失敗などで落ち込むことは前提に含まれていない」んです。
動機形成の前に行われる”適当な想像”ってのは、目標はありませんから(想像だもの)。
「それができないといけないんだ」と思い込んでしまうことが根本的な原因なのかも知れない。
(それが俗に言うような責任感だとか義務感とは違うような気がするんですよ)
それは子供時代の大人に対する恐怖(原初的なエディプスコンプレックスとも言えるけど)、
幼児という圧倒的無力な存在時代の記憶(人類は普遍的に赤ん坊時代という不自由な体験を持っている)、
●この辺の話を俯瞰で見るとどうなるのかって
思春期『反抗期』の葛藤や「不安」などに行きつくのかなと、
自分が(何を想定してるのかはともあれ)「まあ大人だな」という実感があれば、「行為の結果が成功でも失敗でも、そんなことはどっちでもいいか」な原則に近づくんだと思うんです。
つまり「結果とは、それが動機形成から実行されたことであり、意図した事が成功したり失敗することではない」という心象は大人特有のことなんでしょう。
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これまとめていえば→「まあこれでもいっか」というようなアバウトさかなと
「どうせ僕なんか何をしても無駄だ」←の対立概念ですよね
→「まあこれでもいっか」(実行された結果は案外どうでもいいものだ)
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