(裁判に置いて証人の証言は間接証拠の部類になるのはそのためだ《それはあなたの感想ですねの延長と取られる》←複数組み合わせて初めて証拠能力が担保されるが、だとしても物的証拠には及ばない。)
■理由は簡単で、他人の気持ちをテレパシーのように理解する超能力者は滅多にいないだろうし(この部分は推測だ)、仮に当事者がその場で本音を語ったのだとしても(精神分析的には)自分の思考を無意識領域まで自覚できる人など(自分で分析しない限り)いないからだ(本人の発言も極端に言えば断片的なものに過ぎない)。
なので、裁判劇などでは弁護人が「事件と関係の無い事象を質問し、証人には普段から偏見がある」などと立証し証言の証拠能力を失わせたりする。
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これをまた覆す検察の質問は、「その偏見が事件に関わる証言と関係が無い」ところに力点が置かれる(何故なら何から何まで客観視できる人間などいないからだ《どこかしこに偏見があるのが普通》)。
<と、考えればだよ>→「自分の記憶の証拠能力はいかほどか」
この論議の意味を理解いただけるだろう。
『心理学』の精神分析に”ネタバレ効果”があるのは、言うならば精神分析って「動機形成の構造論」だからで(当事者の心情も動機形成論的に証明する)、事実関係という”結果”があるのだから(物理で言えばどういう法則でそうなったを解析すればよい)その”結果”に収れんする動機形成の動きを見てるワケですよ。→なので当事者も自覚できていない深層心理や無意識領域の話が不可欠になる。
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無意識など無いとか意味不明の事を言う人は「忘れていた筈の記憶がふと甦ったり、なんとなくどういうことかわかってる中間テストの回答がどうしても思い出せない」などの記憶が”その時どこにあるのか”教えていただきたい(それが記憶なのか、今思いついた話なのかどうやって判断してるのかね?《あっ無意識から来たなとか、部分的に思い出したとか自覚あるものだ》→新規のアイデアだと思っていたら、後から考えたら元ネタあったかもって場合はあると思うけど)。
※もうひとつ憂慮すべきは、事実を報じるジャーナリズムや、ドキュメンタリーの監督は特殊な才能や訓練によってはじめて「一定水準のリアリズムを記録可能」なのであり、これに比べて一人称の過去語りがどれほど”限定的な記憶に過ぎない”かって事もわかるだろう。
■「人の話は事実を語っても事実ではない」
逆も真なりさ、
■「作り話をしようとしても、人は完全なフィクションを作れない」
簡単な話です、
小説読んで「なるほど作家はこう言う人なんだな」ってわかるじゃんww
下手な自伝より、フィクションの方が無意識的な領域含めて「作家の”自我”像」が現れる。
(設定が自由な方が「作品がセルフ箱庭療法となって」無意識的な部分が表に出やすい)
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