政治(せいじ)とは、国家の意思決定機関である主権をもとに、共同体の領土や資源を管理し、それに属する構成員間あるいは他共同体との利害を調整して社会全体を統合する行為、もしくは作用全般を指す言葉である。
英語における政治(politics)の語源は古代ギリシアのポリス(都市国家)に由来する。ポリスは政治的共同体(ポリティーケ・コイノーニア)とも呼ばれ、君主制を廃止した後に民主政・寡頭制・僭主などと様々な政治体制へと切り替えて、立法などの手段を用いて市民間の利害を調節し、商業や戦争などを通してポリス全体を発展させたことが今日において知られている。経済学の視点から政治の本質を再配分の過程と見なす考えもある。
定義
広辞苑では「人間集団における秩序の形成と解体をめぐって、人が他者に対して、また他者と共に行う営み。権力・政策・支配・自治にかかわる現象。」とする。
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■要約すると(共同体というと誤解招く恐れもあるので)「社会を運営するルール(法)を定める作用や現象」ってことでいいのかしら?
重要な事は「文明と社会との関係は不可分」であり(原初的な文明が”知見の継承”になるのだとした場合、最低限度の相続社会の存在なしに何も始まらない)、
保守的意味で用いられることもある共同体の世俗系が社会である場合、
「社会のルール」が政治そのものだとも言えるかもしれない。
「アナーキズムは無秩序を意味しない(文明を否定し原始時代に戻ろう運動では無い)」とかの話も、政治の主体を政府に置くからであり(米国のリバタリアン思想みたいなことかね?)、慣習法的な発想で考えれば(=必ずしも『共同幻想』を意味しない)「社会が慣習的に運営されている等の現象や作用が文明的である事の最低条件(最初の文明)」とか、政治はどこにでもあるって〜のか、政治的判断って市井にもあるでしょ?→その典型が「折半でどうだ?」
つまり、社会の変遷(いえば世俗化と分岐だよ)、
これに応じて、本来政治も複雑に多様化するのが自然現象であり、
政府がこの分岐を阻害する場合邪魔だよねって話になるかもしれないけど(よく耳にする規制緩和の話)、それが無秩序を意味しない事は説明の必要も無いだろう。
(状況に応じたルールの分岐を中央集権的政治で運営することが不可能だからで、本来の規制緩和の目的は「状況に応じた個別のルール設定を可能とするため」であって、ちょっと前の経済学者の自由主義経済ってのはズレた話なんだよ。《EUみたいに国境を越えて多国間の上位権威がルールを定めちゃうとルールが分岐どころか全体主義的に硬直する》←実はかえって不自由になるってこと。)
■現代の「グローバリズムVSナショナリズム」ってのはそういう意味で、
近代の右翼的ナショナリズムとは全く意味が異なる。
近代の右翼的ナショナリズムってのは、知見が無いので外の世界がどうなってるのかわからず(自国だけが世界に見えて)「ここの秩序が世界一!」みたいになる様だけど、
現代のナショナリズムってのは、世界の国や文化や民族の多様な知見を前提に、本来あるべき自由な秩序の分岐として「ここではこうだから」を守ろうって事だからだ。
ミクロの視点交えて言えば、
「世界の野球で送りバント禁止」とか言うのがグローバリズムで、
「送りバントは個別チームの状況に応じた選択でしょ」って事柄を守るため、グローバリズムに対抗する時の構造がナショナリズムになるだけで、ナショナリズムが「オマエラ全員バントしろ」とかそういう意味じゃ無いから(近代にはそういう部分もあっただろうけど現代では意味が違う)。
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