殊更「超自我」ってモノがあるのではなく、前意識的(しょっちゅう出張ってこないの意)な自我理念(ほとんど憲法)のことで、大体何かの事情で「超自我のお出まし」な時には、それは『道徳や倫理、常識』として自分自身に認知される。
それ(超自我)自体が道徳であるのじゃなく、道徳的な意識の一群が超自我なワケだ、(「人類全員が道徳家」な筈ないから)
『道徳的』の『的』というリアリティー(=もっともらしさ)は何を意味するのかっていうと、自 分 自 身 の 体 験 から 考 えた の では 無い「いいことと悪い事の分別や、」「なんとなく『そうしている』うちに習い性となった自分なりの生存の手口」だってとこで、ポイントは『自分で考えていない』ってとこ
物心ついた=自我がおっぱじまった時から、既に「自分のキャラ」として定着し、このキャラを恣意的に操作する事を『躾(しつけ)』と呼ぶ、
まだ自立的な意識がある前に、なんで又この「脅迫的生きる道」が勝手に生成されるのか?答えは簡単で、言葉(自我)によるコミュニケーションをしない自然界の生き物だって「食べていいもの悪いものや、群れのルール」を必ず承知している、人間にしても群れへ適応する上では、言語化以前から問題なくこの部分の学習をしているのであり、原始的脳の話じゃないが、知性は言語以前から動き出している証明で、自我は言語化以降の代物なので、ちょっとパラドックなのだが、この「言語化以前の自分の知性は言語化出来ない」=前意識的である。
なので、大人になるにつれ、四文字熟語なんかを知って「あ!これだ、これだったんだ。俺の前意識のいいたそうなことはわぁ!」と後付け(?)で言語化されると、常識となる。(通常「それが常識」という話をしている人物が、どこか得意げに見えるのは、この前意識的超自我の言語化成功記念のような追体験的快感があるためで、話し手は若干興奮する)
当然この「これだったんだ」の過程にもっとも深く関与する可能性のある人物は「親」であり、望むと望まざるに関わらず、多大な影響を与える。「それはねこういうことなんだよ」と語りかける絶対的権威(これは幼児ならではの誤解)者の発言の影響力は多大だ。
「あるいは、なんでわからないんだ!」と引っ叩かれたり(これの意味は、どっちにしようか迷っているふたつ以上の意見の、片方に暴力で加勢する事になるので、まったく効果がないのではないが、引っ叩かれる当事者がまるで考えもしない意見で「加勢したつもり」でやると単なる空回り暴力に過ぎないので、ジェネレーションギャプ等がある場合非常にリスクは高い。度が過ぎると殴られた当事者は考えてもいない意見を捏造し、「こうしろといった」として脅迫的な人格傾向の形成に繋がる)
ポイントは「何処の馬の骨ともわからない年長者を、自分の血縁上の親という縁だけで、多感な一時期絶対的権威と誤解」するとこで、これの偏りを修正する現象を『反抗期』と呼ぶ。子供にとって仮想上(友人を通じて他人の家庭の情報屋を得たり、テレビドラマ等を見た結果)「自分は絶対的権威を信じ込まされていた」と感じるためで、反抗期のきっかけは幻滅や裏切りとして認知される。
EX.男の子が突然自分の母親を「おばさん」とか「デブ」とか言い出すのは、それ以前は「凄く美人で最高の女性」と誤解していた事を修正しようとしているからで、自我内のバランスを取るために「凄く美人で最高の女性」のカウンターとして選択される。
女の子の「お父さんの後はお風呂が汚い」というのも同じ原理。
ここまでの話で、この超自我がどえらいいいかげんな環境で成立してしまうのかが、おわかり頂けると思う。これを自我が力ずくで制圧するツールのひとつが「習い事」や「哲学」「宗教」「オカルト」になる、
言い換えると、反抗期が現実と誇大妄想を擦り合わせるチャンスであり、これを逃がすと、超自我は自我に対して脅迫的な影響力を強く残し「ストレス」となる(自我への干渉の頻度が高いので)。自我は超自我には(「習い事」や「哲学」「宗教」「オカルト」等で対抗するしかないが、この文化的な好奇心を疎外する強制力が親の実力行使なんかで起きると、その反抗も難しいものになる)簡単に逆らえ無いので、この未修正の超自我的理想をなんとか実現しようと『汗をかく』=本人には「苦しんでいる」「努力している」等と認知される。
未修正の超自我は誇大妄想的なテーマを多く含む、これを『エディプスコンプレックス』と呼ぶ。(この強引な説明に反論多だと思うが、ここはあくまでも現象面で考えてくれ)
ここまでの話で誤解が非常に多く発生していると思うので、補足的に説明するけれど、「この草は食べていい」とか「この匂いは仲間」とかの元々の野性的知性は存在は強迫的でもストレスフルでは無く「あ!これだ、これだったんだ。俺の前意識のいいたそうなことはわぁ!」との『 後 付け =キャッチ』された部分が誇大な脅迫性を持つのであって、表現はちょっとおかしい事を知りつつもあえて言うなら「この脅迫(強迫)は人為的だ」となる。
人為的なものは自我の名において解決可能なので、
「文化的自立が効果的である」
しかし、宗教は誇大妄想まんまのキャッチで選ばれる事が多く(なのでカルトが選択されやすい)誇大妄想の修正どころか「実現への野望」になる危険性も高い。
超自我の監視外である、スポーツ(ルールが超自我より権威をもつため)や芸術は超自我のジレンマによる苦痛や反発がほとんど発生しないので「アリ」なんだが、道徳的規制でリミッターがかかると力は制約される。(フロイド的に言えば『昇華』)
話はずーーっと戻るのだが、
この上記『「こうしろといった」として脅迫的な人格傾向の形成』の部分が自己嫌悪にあたる。
「捏造された自分の意思」、と言えばいいのか、、
つづく
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