「男子のイケメンはホモフラグ《そもそもこれ新宿2丁目用語だから》」
これに反発ある人いると思うんだけど、性差を前提とする個性の強調で言えばさ、
女性における”グラマー”なる部分が男子の”マッチョ《マチズモ:男性誇示》”ですが、
この”マッチョマン”からしてゲイグループだったビレッジピープル(ある意味邦訳ハッテン場の男達)のヒット曲タイトルで知られるように(所謂ハードコアゲイ)どちらに転んでもホモフラグなんだよね。
何故なら外見容姿と言った場合(これも現代的には総合評価のことなんだが)
最初に目が行くのは性的評価じゃん(”セクシー”って奴だ)←この段階で”受け”になっちゃうのさ(評価される側だから)
これまたフェミな人が激怒することになると思うんだけど、
男性社会の歴史に脈々と伝わる競争力が「暴力的強さ」などに象徴されるものであり、
これが近代『共同幻想』適応社会において、「社会的地位」に代入されているんだわね。
(この時代の男性のファッションにおいても、センスでは無くて、どこの有名テーラーの高価なスーツを着ても様になる地位と中身があるのかが問われていたから、「やっぱ社会的地位のこと」だったのだよ)
だものだから、簡単に「社会的地位不安(要約すると女性からの承認不安)」が一発でDVに転じるワケだ(概念としては同じもの)
同時に、社会的地位を誇示するパワーエリートがトロフィーワイフをゲットするという女性差別史観丸出しの論議になってきた。
●少なくとも男性の外見容姿なるものの評価は現代的な「総合評価」的方向いかないと、どうしたってゲイフラグになってしまう傾向あるのね=それは女性の美を判断する行為そのものが”ミスコン的な女性差別史観的な概念”だからなのだと思うよ。
<前段が異様に長くなってスマンのだが、ここから本題>
■ちょっと地上波を見る機会があってマジマジと確認もしてみたのだが、
女子のチアリーディング全国大会において、造形的な美人の分布は(体力的エリートの選抜でもあるので)一般例より多いかなという感触ありつつも、36人に1人いるかいないかだった。
レギュラーの選抜制から言えば、100人に1人説と大きな開きは無いと思う。
(というか偏差値的に100人に1人じゃないと、希少価値に達しないので美人にならんの←意味わかる?)
そしてチアリーディングという競技において重要なのは(ユニフォームや揃ったダンスなどが特徴なので)競技としても求められる笑顔を見せる競技中は「ほとんどのメンバーが同じ顔に見える」ところだね。
これは『共同幻想』論を語る上での”同じ人格をインストールする様子《適応》”を絵的にもよく見せてくれる(誰でもOK原則の背景でもある)。
■さて美人論と「フォークダンスコンビのジレンマを突破する、暗黙の誰でもOKルールなインセンティブゲーム」について考えてみたいと思う。
・前述のチームのように「複数名で特定グループを形成する場合(ひとつの社会が固定される)」、自動的というか無意識に「誰が一番美人かな」みたいなインセンティブゲームが各項目で自動発生する(性格は誰、金持ちは誰、センスがいいのは誰、頭がいいのは誰、、、、)→インセンティブゲームというのは”選んだ感を演出する八百長の意味”なんだけどさ(個別性を認めない『共同幻想』社会で何かを順番で並べてってのもオカシナ話で《ガチで違いが発生するのは階級でありカーストと呼ばれるものだよね》→彼らが一喜一憂しているのはまあエンタメの範囲内である=八百長)、
↑
このゲームの特徴は「推理小説の密室劇」さながらの世界観になる
ほんの6人なり9人なりの中で、ちょっ〜と目立つところがあると、すごーい違いに見えたりします。
美人論で語ると、見え難いとこあるからさ、
●”頭いい”で置き換えてみようか?
(こういう体験というか感覚は誰でもお持ちだと思う《同じ現象が美人論でも起きる》)
6人ぐらいのグループがいるとして、その中で一番頭のいい奴が何気に誰君は知的だとか頭いいよねって風評が固定化する。←するとこの群れは全体として”誰君は頭がいい奴だ”と認識し、誰君も頭のいい奴担当みたいな振る舞いをし出します。
↓
この誰君が東京に進学して、周囲がダントツで自分より頭のいい奴らばかりになったとする。
彼はサークルなどでここでも6人ぐらいのクループを形成するが、そこで彼の役回りが頭のいい奴になることは無く、宴会担当になったりする。
↑
ハイ、この現象をどう見るかって
■地方などの特定母集団が存在すると、「本当に美人かどうか無関係に、その中で一番誰が美人かしらみたいな順位つけが行われ、(社会的に公平に見て美人と言える人物が存在しなくても)誰それさんって美人だよねの位置づけ《配役のことだよ》が行われ、この群れはその人物を美人と認識する。」
↑
この様子を適応強迫系の非適応者が外部から観察すると、「どこにでも美人がいて、美人はどこでもいい扱いを受けている」みたいに錯覚するワケ(この認識がさ順序が逆さまになってるのわかりますよね?)。→「私もそんな美人になるにはどうしたらいいですか」などの問いがどれだけナンセンスかわかりますよね。
(まず劇団に入ってからの話だし美人の配役は本当に美人だからでは無い《風俗店のNo1にも似たところある→昭和の言葉で言えば「村で一番の」や「街で一番の」の意味を考えてみろってこと:そこには前提があんだよ》)
(この人物が観ている幻影は、『共同幻想』適応社会のインセンティブゲームであって、組織構成員に適応した時にだけ、半ばお約束で誰かが美人役や頭のいい奴に設定されている様子に過ぎず、本当の美人や頭のいい奴では無いから←ゲームのルール上そうなるみたいな展開だ《どの劇団にも美人登場シナリオの時にはこの人かなって配役があるのと同じなのさ》)
↑
●で、観察対象が、現代では少数派に転じた『共同幻想』適応社会だからさ、
(適応社会の中の人もさ、これはゲームだって何気にわかってるとこあるので、美人って表現はな〜ってことで”可愛い”を使用することも多い《彼らの本意は「本当の美人じゃないけどねの意」》)
その様子を外部から見ているので、適応強迫系の人には(適応社会が美人と可愛いをどう使い分けているのかもわからず)「美人=可愛い、同義」みたいな勘違い設定になったりする。
※説明するまでもないけどさ、「インセンティブゲームの設定上、ランキング設定が必要になり、便宜的に選択している側面もあるため」→美人はタイトル的に無理があること多いので(なんせ100人に1人しかいないのだから)「《美人じゃないけど》誰さんは可愛いところあるよね」として、代用案として(美人いなくても順位つけタイトル可能なように)”可愛い”を便利に使ってるだけだから。
しかも彼らの世界の可愛いの本意は→「いつも笑顔で、健気だ」のような群れに対する好意的態度のことなんだよ。
(極論だが適応社会の彼らにしても”本当に美人かどうかなど判断していない”のだよ《ここブス論の逆さまなのさ》)
参考:ブス《附子》論は以下
https://kagewari.seesaa.net/article/500401218.html
て な わ け で
「私もそんな美人になるにはどうしたらいいですか」
「私もそんな可愛い人になるにはどうしたらいいですか」
↑
これらの問いは、問いになっていないのわかりますよね?
現実認知そのものが間違ってるから。
(事の始まりは「適応強迫」なので、美人がどうとか全然違うから)
↓
更にこの活用形に「ブスだから何をしてもダメなんだ」というアイデアがあってだな、、、
こうなると、事の始まりからファーラウェイに離れてしまうので、個別各論の話を展開して意味があるだろうかって水準になる。
(この押し問答を続けていれば事の始まりに論議が及ぶことが無いという一石二鳥になるんだわ《何故ならこの段階に及ぶと解決することが狙いでは無く、”鬱ネタ”をキャリーオーバーすることが脳の目的になってるんだわ:不快『興奮』でドーパミンがゲットできるならそれでもよい》)
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