2021年10月11日

社会適応と、自然界での実存

正確に言えてるのかわかりませんが、
タイトルのニュアンスは
「自然環境を社会環境に置き換える考えと、自然環境で生存することをそのまま考える場合の違い」かなと思います。
 ↓
●寒冷地なので動物の毛皮を着る文化が生まれた
(これは環境への”適応”でしょ)

●この辺には古くからの信仰があり、ホニャララの祭事がある。
私は集落との関係を重視し、奇異にも思えるこの祭事に参加するのであった
(これは社会”適応”)

前者を自然派というのもアレだけどw
『共同幻想』社会が構成されていると、生き残るために先に適応すべきは自然環境より社会環境になるだけなんですよ(所謂村の共同体意識である『共同幻想』は安全保障のため発生するので)、中世の魔女狩りじゃないですが、事情の説明も無く逆らえば殺害される場合もあるからです。

※半面、この『共同幻想』安全保障は、自然環境への適応でもある(村の共同体意識により農地への灌漑インフラが構築されている)三段論法みたいなものです→自然環境への適応も共同体として対処する方がはるかに有効である、自然環境への適応は組織的に行い、個々人は組織への適応を考えればよいことになる。

《なので先進国になると(インフラが整備され)『共同幻想』存在の合理性は失われるので崩壊が始まる:文化や情緒的な地域性のみが残っていく》
ゴリゴリ保守派のみなさんに言いたいのは「適応と、オマージュやリスペクトは違うけど、保守リベラル派は喧嘩を売ってるのでは無いので、そこを勘違いしないでいただきたい」ってことかな。


■話を単純化すれば
景色の美しいどこやらに行った時に”大自然に感動する”とかなんとか、
これに対し、その場でも人の顔色や慣習や手順のことばかり気にして景色どころでは無い、
 ↑
前者後者の対比で考えるとわかりいいでしょ
『共同幻想』以前というか、その始まる前の原始時代と思しき壁画が時々発見されるけど、
(ラスコー洞窟の動物壁画とか)
どっちがナチュラルかって、そら(言語があったか知らないけど)自然環境に触れて感動するなりって話だったであろうことは明白で、「空気読んでる(言葉選んでる)場合じゃないだろ」ってね(笑

本来あるべき人類ヒト科のなんてーかな〜
「生存が実存と同じだったころ」に回復しているだけで、
『共同幻想』崩壊を、地方のコミュニテイーの崩壊みたいに煽るのも大袈裟だと思うのさ。
保守派のみなさんも、「そういうことなので過剰に心配しなさんな」と、


<『家幻想』について、次回へつづく>


posted by kagewari at 17:47 | 精神分析時事放談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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