いきなり何かって書き出しですが、、『妄想』を複数のの角度から論証してみたい。
(勿論そのひとつは先日連載した「空耳と電波」である←これは後述)
最初の角度は「オカルト現象」から
参考となる記事がある
大宅賞作家が記録した3・11後の「霊体験」
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20170809-OYT8T50014.html?from=yhd
<一部抜粋>
3年半にわたる取材を通してわかったこととは何か。「最初は気づかなかったのですが、霊体験とは『グリーフケア』(悲しみのケア)ではないかと思います。グリーフケアの『ケア』とは、『セルフケア』の『ケア』です。自分がいちばん納得する物語を創(つく)り、自らをケアする行為ではないでしょうか」と指摘。↑
「『霊体験』そのものは事実かどうか証明できませんが、体験した当事者にとっては『事実』です。彼らの体験を非科学的と否定せず、普通に受け止める社会になってほしい。人間は合理性だけで生きているのではない。非合理的な存在でもあることに気づいてほしいと思います」
重要なポイントは「不確定未確認な事象でもそれが当該人物には明解な事実となる」可能性です。
引用の「霊体験」の是非を云々しているのではありません(そこは前述レポート執筆者がドキュメンタリー著作家としての見解に同意)、
●そもそも論として唯幻論的世界を生きるこの世の生物は、脳で再現される電気信号情報を”現実”として認知し、タイムラグのある「少しだけ過去を生きている」。
●言うならば「脳内で再現された仮想現実以外の方法で現実を知覚することはできない」。
●さらに”事実認定”とは(裁判所がある理由だが)主観による現実とは”別物”である。
(最近報道によく登場する第三者委員会もそれ)
報道関係で言うところの「裏取り」の話であり、この世に裁判における事実認定がある理由です。
仮に関係者全員の証言に齟齬が無くても尚、それだけでは事実の検証とならない。
被告原告いずれか一名の証言があれば、それをそのまんまカーボンコピーしてノーチェックで最高裁判決になるなんて世界はこの世に存在しない。
(今回引用のドキュメンタリー著作家の着眼点も同じ)
それらの証言から「そこにあった事実とは(ロジカル的検証を経て)どう語られればもっともそこにあったもの起きたものを表現できるか?」
描画や写術や詩的情緒要素などを第三者が客観的に検証し(裁判なら犯人の特定だけでなく被害感情や犯人の情状酌量なども踏まえ)、
「霊体験」が本当に外的事象の影響によるものかを云々することが中心では無く(個々人にとってそれは疑いようの無い現実であることを前提に)、
「そこに起きているものはなんだったのか?」を思考するものである。
■ある意味その作業は精神分析でも同じで、
精神分析は登場人物の心理的背景や傾向、更に動機形成の点から、
「そこに起きているものはなんだったのか?」を構造的に分析するものである。
■■■<話は個人レベルの”現実”論に戻るけれども>■■■
極論
「妄想とは何か」と「(個人にとっての)現実とは何か」に”区別は無く”同義語である。
だから生物は睡眠中に『夢』を”見る”ことができるのだし、
「脳内で再構築された脳内情報(当人はそれを現実と認知する)」という点で上記三者は同じだからだ。
話は60年代になりますが、
当時流行したサイケデリックなる音楽において、ドラッグをやると創造性が刺激されるのだとばかりにかの有名なビートルズでさえマリファナなどを手にした(日本では井上陽水先生なども)、
妄想と現実の狭間のナントカでって取り組みでもあったのだけれど、
現代の脳科学や心理学から考えていけば(脳は記憶をザックリとした情報に解体圧縮して適当に格納するので→故に肝心の試験の時に思い出せない)、脳内に分解圧縮格納された情報は既に情報量的にはおおよそ当時見たままを再現”できず”、
↓
●何故一般人は絵が下手なのか?の理由そのまんま
幻想的な妄想なのかって見えるそれは、
「これから料理を作ろうと買い揃えた食材を(手順と関係無く=論理性無しに)鍋に乱雑に投入し(カオス:混沌)その状態で「これは何の料理?」と自分に問うようなもの」なのであり、
(デジタルの世界で言えば、画像情報として再構成されたDATAを見るのでは無しに、この論理機能をスルーして、デジタル情報そのまんま01010101110011←これを見て”何?”とやっているようなもの。)
↑
やれ臨床ナントカが統合がどうしたとか言いだすアレのネタ元ですよ。
■何故予めフィクションだとわかっている「映画やドラマや音楽で人は感動できるのか?」
(付け加えると「自分がプレーしているワケでも無いのに何故スポーツ観戦で興奮できるのか?」)
そりゃ〜
当人の脳内再現領域に”それ”が論理的に再構築できるのであれば、
「それは疑う余地のない(個人の自我にとっては)現実だから」です。
なので(ネタに応じて)自我が再構築可能な範囲に個人差があり、
そこが「同じ映画でも感動する人しない人の差異が発生する理由」です。
あれれ?
だ と し た ら
「強迫心理」により、予め現実認知上の『枷』(上位概念による筋立て設定)がハマっている場合どうなります?
(であるべき、なければならない、と決まっている、などの強迫的な筋立てが予め再構築するべく現実の論理性を支配しているのだから)
当人自我は「あられもない荒唐無稽な妄想を(当人の強迫心理に都合がよければ)なんぼでも現実として認知する場面が連発します」。
↓↓↓
●たとえて言うなら「強迫心理」下における現実認知ってものは、
「通常誰も理解できない支離滅裂でカルトなB級映画に感動する状態が連発し恒常化しているようなもの」である。
(東京地検で言えば《上位概念の強迫的”筋読み”が構造的に設定され》「冤罪や国策捜査が連発」するような話です。)
↑↑↑
●誤解を避けるために念押ししますが、
「それは妄想では無く、(広く一般に映画や芸術やスポーツが共感・感動される仕組み同様に)一体どんなネタが脳内で現実として認知されるのか?」←この点の個人差に過ぎません。
当人自我には「本当の現実」です。
■何故臨床ナントカの世界で、
やれなんとか症だの意味の分からない分類が出てくるのかと言えば
「Jポップが好きな人」だとか「60年代サイケの好きな人」や「クラシックの好きな人」のような分類が派生している”だけ”の話。
↑↓
さて、上記分類が可能となる類型化の傾向はどこからくるのものか?
問うまでも無く、答えは簡単です。
↓
「強迫心理」の元ネタが『共同幻想(一般社会を類型化するもの)』だからです。
■■■<<今回の話は極めて重要な話で>>■■■
(基本用語の解説リンクにも入れておきます)
日常会話で誰もがお馴染みの口語表現ですが
「そんなの考えられない」
この言葉に(その仕組みが)バレてます(笑
脳内の情報再構成ソフトの論理や概念に存在しない(エラーが出るので再構成できない)。
↑
ええ、それが客観的事実認定における”現実”であったとしてもです。
或は、『共同幻想』適応選択自我な人が、時折『単独者』を指して以下のような言葉でそれを表現する場合があります。
「自分の”世界”を持っている人」
凄くわかりやすいですよね(笑
翻訳すると、
「『共同幻想』適応自我は一部を除いて”世界観”が組織で共有されたものなので”私もみんなと同じ世界”になる訳だけれど、あなたは『単独者』なので(個性化自由度の制限が無く)”そのまんま自分なりの世界”を持ってるって事ね(それがいいのかわるいのかともかくに)。」
曰くですね(心理学が特定人格には構造的に理解できない理由と同じく)、
『共同幻想』適応社会で生きるって事は、特定ベクトルのかかった現実しか認識できない(特定の映画の登場人物以外にはなれない)世界に「あえて自分を落とし込む」ようなもので、
↓
その『共同幻想』を元ネタにする「強迫心理」下で生きるって事は、
(誰とも共有不可能であるため『共同幻想』における仮想上の正統性や多数決的な裏付けの”無い”)
「そうだよね」が誰とも共有できない(不安を織り込んだ)特定ベクトルのかかった現実に孤立し、「謎の室内劇ドラマとその他大勢」のような神話系ホームドラマの配役から”降板できない人生”になっちゃっている状態、且つ「その自覚が無い」ようなもの。
●「空耳と電波」に関しても
上位概念で「こう読むように」の字幕が脳内で走っていますから、
それらしい母音構成の会話を聞くと、全く違う「強迫心理」マターな話に聞こえてしまうってのは”アリアリ”なのであり、
それは当事者自我にとっては「断じて幻聴などでは無く、本当にそう聞こえる」のです。
前述のココ
「Jポップが好きな人」だとか「60年代サイケの好きな人」や「クラシックの好きな人」のような分類
上記の話で言えば、
内田裕也先生の例の歌「さらば愛しき女よ」が、
ネット社会では(『共同幻想』ロック社会に)「ペロンナ ロンリガーン♪」として完全に認知されちゃっている事からも説明するまでもありません(笑
(※この場合、むしろその曲名は)「ペロンナ ロンリガーン♪」が正しく、「さらば愛しき女よ」はその副題のような位置付けで12人の怒れる多数決により”事実認定”までされちゃっているワケで)
解説は以下
https://matome.naver.jp/odai/2131569072908012401
ニコ動「ロックだぜ!内田裕也がヤクザの前でタコ踊りw」
http://www.nicovideo.jp/watch/sm15865557
■その構造は(トリックのネタさえバレれば)どうということの無い話ですが
当事者自我にとって(上位概念からの)無理強い合理性の枷がハマると、
(意味の分からない演出家の五箇条に拘束されて)
どんなトンデモ認知でも、当人には「物凄くリアリティーのある現実そのもの」として自覚されるので(てかそれは認知論的には「本物の現実」なので)、当事者だけでは容易に抜け出せない。
趣としては「裸の王様」の話にちょっと似ている世界になります。
そこから離脱することは容易ならざるものである。
そんな心理学的事情を知ってか知らずか、
妙に重なるところもあるこの音楽を紹介して今回は終わりとします。
■タランティーノ監督の映画『Jackie Brown』から
Bobby Womack「Across 110th Street」
歌詞はこちら
http://d.hatena.ne.jp/komasafarina/20071104
オマケで同映画から
Randy Crawfordの「Street Life」
カッコイイ!
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