『単独者』論でも時々書いてきたことですが、言語や国籍などという部分の(時限的な部分はあるにせよ)同時代を生きる個体にとっては事実上普遍的な『共同幻想』は、幻想では無いワケで、『単独者』化が進んでも壊れません。
固定的『共同幻想』とでも言えばいいスかね、
更に付け加えると『単独者』の個人的自由を阻害しない概念は、崩壊云々論議の枠外なのだから”崩壊する必然性”や必要性が無いのです。←そうでなければ『単独者』は全員がフリーJAZZ志向であるみたいなド・ナンセンスになっちゃうワケで、「言語を捨てる自由」があるとも思えませんからね。「音階を捨てる音楽」じゃなけれど根本的な論理矛盾に行きついちゃいますから。
(ちなみに関連として「方言などの存在によるローカル『共同幻想』の壊れ難さ」ってのがある)
■通常あたかも自分の思考に特定の人格に偏向していると自覚することは無い。
実際に偏向が存在していてもです、
誰でもが「そういうもの」なのです。
(そんな事に自覚があったら、脳の中の人のまた奥に中の人が別にいるみたいな話になる、)
国際間における偏向差ってのを体感できるような説明となると、帰国子女の方にしか実感わかない話になってしまうので、
それに類似している「ローカル『共同幻想』間の偏向差」で説明していきましょう。
「あ〜○○の人はいっつもそうなんだよね」
「うちらだと○○と言えば○○だけれども、○○の人に話したらなんだそれって」
「そうですね○○地方では○○の事を○○と呼んで、一種の土着信仰というかそんな側面もありますね」
「え、もう一度言ってもらえませんか、ちょっと言葉の意味が、、」
つまりそれこそ『共同幻想』なワケだから、まず共通認識として言葉が通じる通じないって水準の差異があるワケです。そして地元の言葉が通じない相手との間には、その背景を成す共通体験としての文化的実体験に基づく何かがあるで無し、同じ共同体の構成員と認識する事はなかなか無いワケです。
●その場合お互い『共同幻想』である言葉を捨ててむしろジェスチャーに切り替える方が意思疎通ができるようになったりする(この辺は言語学的不思議でもある)。
無茶でも「全員英語で話せや」など無理筋を提案する人が時々いますが、発想自体は理解できるとこもあります(しかし運用上無理ってことで)。←ちなみに「英語で話し出すと微妙に人格も変わる」ってアレも言語的不思議のひとつでしょうね。
さて、ジェスチャーなど意図的に情報を簡素化して共有認識の水準を上げるの反対は?
「頑なに自分サイドの言葉に拘る」事ですね。
そして、地域ローカル『共同幻想』で最も大事なことは?
「ここの方言でしゃべれや」であると、
(だいたいこの流れで『共同幻想』が政治的保守性と不可分であることがご理解いただけると思います。)
ちょっと話逸れますが、
地域ローカルの独自性は国全体から見れば個別性、個性ですよね?
「ここの方言でしゃべれ」の下には「自分の言葉で話せ」なる言語表現があります。
個別性を更に細かくしていくと、個人に行きつく→『単独者』って奴で、
地域ローカル『共同幻想』ってのは、自分の使いこなす方言が同時に自分の個性である場合、「偶然それを共有している構成員も存在するけども」当事者にとっては個性です(認知上は『単独者』的ですらあり得る)。
昭和の歌謡曲じゃありませんが、
「大阪で〜うまれた〜女やさかい〜東京へは〜」
上記言語は共同体意識として語られているワケじゃ〜ありませんから。
『共同幻想』ってのは、それを共有する「個人体験」なのであり、当事者の認知は自分の個性です。
何の話をしとるのかなかなかピンとこない方いらっしゃるかもですが、
だからこそ、地域ローカル『共同幻想』に対する不安要因であるとか(東京の官僚から行政区分がどうしたの提案がくるとか)、震災など安全保障上の問題がある時、『共同幻想』って当事者の認知は自分の個性だから→「自分の事のように思える」のです。
更に言えば、高校野球の時のように、
「自分の事のように郷土の高校を応援したり、別の『共同幻想』社会を(それだけの理由で)余裕で敵として認定もできる」
という構造になってます。
■更に話進める上で『共同幻想』に関わらず『組織論』の原則にも触れないといかんと思うのだけど
固有の社会や共同体を形成するって行為は=他の社会や共同体と敵対するって意味です。
上記は不可分の関係にあって、
(「固有の集合条件=不一致性の排除」←これって同義ですから。)
形成過程で順番逆さまにやっても答えは同じになります。
自然界の法則において動物のドキュメンタリー番組などご覧になるとしょっちゅう出てくる話です。「群れ」とは安全保障のための存在であって、安全保障てってのは=仮想敵に対峙するための方法論です。(戦いを避ける、或は戦う前から優位な状況を確保するために)「強い戦闘力であるとか防御力を備える」のが組織であり社会であり集団です。
排他するから集団化できるのであって、
全方位に融和的であると固有のアイデンティティーは崩壊します(そこにカオス状の烏合の衆が存在するだけで特定の組織性を観察できなくなる)。
特定社会とそれ以外の社会は「必ず排他関係にあるので(或は潜在的敵対関係にあるので)」、法治国家を模して国際間でも「なんちゃってでも国際法のようなルールを決めませんか」とやってきたのです。同じ対立関係でも限度を設ける事については”共通認識”が成立するからです。
●国家である以上「一つ間違えば戦争になる」ことがわかりきってるから、こりゃいかんの共通認識が生まれ→戦争のルールであるジュネーブ協定とかは「ですよね〜」と満場一致できちゃうワケです。
■さて、ぐるっと回って地域ローカル『共同幻想』です。
「ここの方言でしゃべれや(でなけりゃお前はよそ者だ)」
に見られるように、同調圧力と申しましょうか、
『共同幻想』の性(さが)そのものってのはあるワケで、
(群れは安全保障上の存在なので、基本「敵か味方か」以外の分類は無い→オマケ枠に「関係の無い異邦人や旅行者」の枠があるぐらいで←これが近代から昭和までの『単独者』枠だったんですがww)
ザックリ考えると「○○県の人か、それ以外の県の人か」以外の分類は無いですよね?
そういう論理構造になっとんのです。
人の自我が論理性を踏破しちゃったらもう狂人です。その反対に合理性の保たれている自我は論理性を超えることが無い。→故に(他のオルタナが無い場合)そういう論理構造に事実上固定されるのです。
ですから先進国化『共同幻想』崩壊過程の中では、固有の方言は失われるものがでてきたり(若い人は高齢者ほど訛りが強くないなど)、ここ不可分なんですよ。
この辺の文化人類学的なんとやらは、両輪なワケで、
ついでに言うと
■「なんか横文字になるとカッコいいかと思ってしまう」
なんて〜のがありますね(宮澤喜一先生じゃないけども)。
そこにも誰しもが持っている『共同幻想』ならではの偏向された認知ってのが、垣間見えます。
どこの国でも近代などに「珍しい舶来品」みたいな概念ありますから、
(価値論の原則は”希少価値”)
珍しい外国のおみやげも、ワザと(地元方言の対極として)外来語表現使うと(自我の論理構造上の結果としてうっかり)「あれなんか響きがカッコいいかも」とか思っちゃうと(笑
はてさて、ことほど左様にですね
●国際関係において「紛争の激化としての戦争を前提としない」なんて考え方は、
それこそ”論理的にあり得ない”。
外交文書などによく登場する「民主主義など共有する重要な同盟国」とかの表現ありますね、
勿論それは国単位の『共同幻想』の上位概念となる国家間の『共同幻想(集団的安全保障など)』がありますね〜を示唆したもので、
国家が故人なら『単独者』の平和(干渉しないし関心も無い)があり得るとしても(なんとかファーストなモンロー主義の意味ではありませんよ)、国家が『共同幻想』である限りその原則を超える事はあり得ないのだから(無理やり国家の独立を抑制しようとすれば大EUのような全体主義になってしまう)、”何らかの共通認識”に紐付けされた同盟やそれに準ずる友好関係が成立しない限り、それ以外は全員”仮想敵”になるんです。
だから「自衛権はド・自然権」なんです。
■集団や組織化を目的とする『共同幻想』ってそういうもので、
近代以前のその期限までさかのぼれば「この地域の気候はこうで土の性質がこうだからこの作物をこのノウハウで」が同地域で共有されることは人間の種としての生存権に関わるものなワケで、
上位概念になればなるほど(権威の後ろ盾や概念の建て付けが固定的な安定度に至るので)”公的”概念とほとんど同じ意味になります。
確かに、地域ローカル『共同幻想』を象徴する方言が文明化の中で若い世代で崩壊し、先進国化特有の『単独者』の’拡大に至る状況は、あたかも(左翼リベラルの提唱するポリティカルコレクトネスの標準語化のように)安全保障系『共同幻想』まで崩壊するかのような見方をしてしまうのもわからんでは無いが、それはあり得ない。
何故って、冒頭の固定的『共同幻想』にあるように崩壊の歩留まりがあることと、
決定的な理由は『単独者』化とは多様性であり「多種多様な対立を包含する豊かな先進国社会」という意味であって、(大EUがアホみたいに提唱した)世界市民のような画一的全体主義と正反対の概念だからです。
この辺の構造を踏まえて理解していないと見当違いな斜め上の幻想に振り回されるだけです。
(左翼リベラルの提唱するポリティカルコレクトネスの標準語化ってのは、更に上位概念の『共同幻想』で全人類を支配するかのような、これね、フランス革命以前の宗教権力による統治みたいな話になるんですよ。もう、それは近代以前への退行化なワケで、、)
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