生き物は現実そのものを”リアル”として認知”できません”。
五感で得た情報を脳内で再構成することで認知しています(実際に情報処理タイムラグも存在し認知が”リアルタイム”ではない事は確実)。
過去ログで、何故映画のBGMに違和感感じないのかなんて話をした事ありますが(日常生活に効果音とか無いからみたいな)、
SONYがウォークマンを開発して以来、通勤時だとかジョギングする時に音楽かけながらって姿は一般的な日常風景です(60年代から80年代における「デートの時にカーオーディオで何のカセットをかけるのか」なんて世界もありました)。
実際にBGMかけながらの生活が実体化している。
この場合映画と違って、自ら積極的にBGMを選択し現実世界を演出しつつ自分の現実を補完しているのであり、体感されている世界はこの段階で”既にバーチャル”です。
前から思っている事ですが、
VR技術が進歩した世界では現実をより多様に”選択”できます。
媒体としてそれが各個人や階層のリビドー解放にどのように関係するのか予測できませんが、産業革命超えるインパクトを与えるだろうと思います。
VRコンテンツ成功のポイントは思ったとおりの(夢に見たまんまの)世界に耽溺しようって事では”無く”、「現実”同様に”容易に思う通りにならない仕様」です(難度の高いゲームが好まれるのもこれが原因)。
前述括弧の話じゃないが、ゲームの世界において欧米は日本と比べ極端に難易度の高いゲームを好みます(日本版には存在しないモードがあったり)。求められている世界は「容易に思う通りになる世界では”無い”」からです(欧米の高難度志向も彼らの文化固有の「リアリズム体感の壁」なのかもしれない)。
競技者が全員パーフェクトスコアを出すゲームはゲームですらありません。
ゲーム性とは「難易度とそれに挑戦することで発生するリアリズムのこと」である。
時に保守派のみなさんはVRなんてのが拡大すれば、人類は怠け者になるみたいな前近代な発想するかもしれませんが、開発者が挑むのは「たとえばそれが登山VRならいかにリアル登山に符合する難度を組み込むか」となるでしょう(勿論命の危険まで織り込むことは無いけれど)。
怠けるどころかVR世界における動機形成の水準は特Aクラスとなる可能性もある。
メンタル問題などにおける初動の対応”安全地帯へまず退避”じゃありませんが、強迫的世界のしがらみを一発で消滅させることができるって部分で(100%の『共同幻想』放棄みたいな)、特筆すべき部分があり、
それは「引きこもりリスク」ともなるんだけれど「あ〜なるほどだからゲーム世界から帰ってこれなくなる異世界モノってジャンルがあるのだな」と思ってみたりするワケですよ。
「産業のAI化&ベーシックインカム時代の到来」により「帰ってくる必要性があるのか」という大命題が突きつけられる可能性もありますから(更にトンでもな部分で言えば肉体を離れてもいんじゃねという不老不死な世界観も台頭するでしょう)、
人類ヒト科はいよいよ想像を超える”現実”に対峙することになります。
■話を”ゲーム性”に戻してみると、
「『難易度と挑戦』が成立しなければリアリズムは担保されない」
そのまま『抗(あらがう)』スタンスの維持を容易にする環境でもあります。
逆説的に言えば「夢想的ハードルの低い快楽主義は快楽や幸福の条件を満たさない」っつーネタバレでありまして、
(全ての人類に「シューシュポス的不条理こそが快楽であり幸福なのだ」なんて言う気はありませんけれど、、)
心理学的に言うところの「結果論は無関係」の暗喩です。
「馬が一頭しか出走しない競馬」じゃあ賭け事崩壊しちゃいますから、
●「勝ったのか負けたのかが重要では無く、いかに勝敗をテーマに自意識が挑むのか」て〜のが自我の存在理由です、
(故に物語においては「俺たちの戦いはこれからだエンド」があり得るワケ。)
■自我におけるデフォルトなスタンスにとって危険なアンチテーゼは『依存性』であり、
VR世界から帰ってこなくてもいいかも論は依存フラグにはなりません。
心理学的にやっかいな問題となる依存とは、自ら『自意識マター』をネグるような抑圧フラグの事であり(確信犯的選択の証明となる自己責任を賭け金として担保できない)、
メンタル問題に飲まれていると後者になっているだけでなく、VR世界的ゲーム性に対しても否定的になりがちになります。
時々ゲーム廃人みたいな呼び方でゲームから帰ってこれない人に引きこもり系メンタル問題が疑われる事ありますけど(反証として現実世界において自意識抑圧があるのかもしれない自我問題の可能性はあるにしろ)、ゲームプレイにおける耽溺は「ここなら自意識全開できる」などの動機によるものなのだから、少なくともプレイ中のメンタルに問題があるとは言えない(なんて言えばいいか「その空間にいる時のが本当の自分だ」みたいな)。
■(その理解に難易度が高い)前衛芸術を理解する人にはメンタル問題にならないって訳ではありませんが、往々にしてその傾向は観測可能なのだろうと思います(論理的にあり得る)。
ヘッドフォンやイヤフォンから流れるBGMが所謂一つの流行歌であれば「それは『共同幻想』親和性」なのかも知れませんが、同時に「強迫心理」の内在性かもしれない。
かと言って、奇妙キテレツな前衛音楽が聞こえていたら絶対『単独者』なのだとも言い切れないけど(てかBGMとか変だろって着眼もあるでしょうし)、
共有性(社会性偏差値)と独自性(個性希少価値)のようにベタなところから考えれば符合するとこあると思う。
音楽自慢なんて状況を考えると、
(厳密な話じゃなくてあくまでも”わかりやすくすれば”程度のたとえですが)
・『単独者』は趣向を聞かれて「聴いても意味わからないだろうけど」とニヤケながら誰も知らなさそうな楽曲を話し、
・『共同幻想』適応選択者は(相手もそれを共有・知っている前提で)「なんとかのアレが好き、いいよね〜」(と無意識に共感・同意を求め)、
・仮想単独者状態の若い自我なら「とにかく(周囲が知っている)流行っている曲は嫌い」だろうし、
・強迫心理下にある自我は(何が好きぅて自意識を抑圧されているのだから)「何が好きと言えば認められるのだろう」と考える、
だいたいこんな感じかしら。
「自分の世界」なんて言葉もありますからね、
現実の自分の姿に何やら妙に拘るのも(コンプレックスも含めて)自由度低いって意味で言えば抑圧的認知です。
やれどんな服を着るとかって時の「似合わないから」なんてのも同じでしょう。
(難易度と挑むの対比で考えれば)現実ってのは「いかにもそれらしく認知される四角四面で遠近法の写術的世界に限るものでもないだろう」と思うんですけどね。
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