(”おいしいモノなど無い”の原則論と同じ→おいしいモノ分類の射幸心のある食べ物が”おいしい食べ物”なのだけれど、「これがおいしいんだよ」な食通ほどそれは増えるワケで、個体によってその母数が変化しますから「おいしい食べ物を知る人」がいるってのが正解なのかも。)
現実ってのは相対論ですから「未来とは言わないが内容的には未来のこと」です。
「直面する隙間の無い次の時間」とでも言いましょうか、
「過去では直近のこと」とでも言いましょうか。
結果として前述括弧の”おいしいモノ論”にあるように、「(未来であって想定できない筈の)現実を知る人ほど現実の幅が広い」などと言う、言語として極めて怪しい状態が”あり得る”のでございます。
所詮イメージや認知の幅って事なのかも知れませんけれど、
「何をもって現実とするのか」みたいな捉え方は=「自我構造のファンダメンタルそのもの」でもありますから、メンタル状況が変化すると「現実すら可変する」という図式が成り立ちます。
※勿論、科学的にあり得ないことなので言語表現としても極めて怪しい説明になっております。
つまりメンタル問題がアレになるとなりますと→「想定する現実を指名(固定)することすら可能」となってしまい、この状況は(未来と過去の定義にあるとおり)「そこまでいっちゃうと”現実を喪失している”」という形で証明されます(不確定な可能性を否定するからです)。
「想定する現実を指名することすら可能」と表現するのは”×”で
「そこまでいっちゃうと”現実を喪失している”」と表現するのが”○”みたいな、
随分いい加減な説明になっちゃってますが、
なんせそこは自我や言語ってものからして、かなり制限のある(実態としては幻想)カオスな代物なので(”制限のあるカオス”ってからして言語的に壊れてんですが、、)、すっきり説明する事はおおよそ不可能なのであります。
なんだか場当たり的説明に終始する感じになりますが、
ぶっちゃけ「そこが説明限界」です。
■話を原則論に戻しますが
現実を「過去では無い直面する未来」と定義した場合、
空間的には屋外や外界などのイメージになりますが、そりゃネット空間だろうと脳内イメージだろうと場所も空間も特定されません。「次に脳内で思いつく話(直面する未来)」だってありますから。
そうなっちゃうと、現実ってのは自我そのものでもあり得るのでありまして(鏡像論でしょうか)、
さて、この場合自我の統合(自己の概念)も「これという制限無く可変」する事になってしまいます。
実体からして「そうなんです」が(笑
極端に言えば「1秒後は別人」なのが人類ヒト科の特性でもありまして、
それでも自我の統合が何故壊れてないのかって理由は簡単です。自我の統合ってのは「過去を材料に造られている」からです。
「1秒後は別人だが、1秒後はもう過去なので、その経過毎に”1秒後”は自我に取り込まれれ続ける(統合に途切れが無い)」ちゅうワケです。
「あっ、こうやりゃできるじゃん」←この前後で、なにかができない人とできる人の分岐がある事になりますが、「できたじゃん」という(あたかも最初からできる人であったかのような一種の詭弁で)自我の統合は壊れません。←過去全体を一群として見る人にとって(推理小説の結末を知る人)時系列にはそれほど意味が無く「結果的にできるのか=本来できる」という解釈で問題無しなんです。
随分無茶なシステムなんですが、、、
そうじゃないパターンを想定していただければご理解いただけるかと思います。
↓
「あっ、こうやりゃでくきるじゃん。あ、できた。嘘だ!俺はこんなことができる人間じゃない、あり得ない、できちゃいけないんだ!認めることはできない。俺はやってない!」←自我の統合が壊れそうなので保守している様子です。←この現象も日常茶飯事起きてます(できるとわかっても好き好んでやるかやらないか個人の自由なのですから)。
つまり、無尽蔵・無節操に思える自我の変遷は「常に選択されている」ため、そこんところの主体論的ポジションにより自我の統合は破綻無く継続するのであります。
そんな状況の典型は以下のようなものです。
↓
テロリスト「実に簡単じゃないか、引き金を引くだけだ。お前がこの人質を殺せ。」
「僕には(可能な行為だが)できません。」
テロリスト「なんだとー!」
みたいな場面です。
(※逆さまな状況に好き好んで身を置く生き方もあります。→アバンギャルドな奇行じゃなければ気がすまないロックでアナーキストみたいな人もいますわね。)
さて、困りました。
てことは「自我が未来を選択している」つーことになるのでしょうか。
現象としてそれは科学的に不可能な概念でもあるのですが、
まーね、人間なんてものは無節操でいかようにも生きる事ができるって話です。
■「この世にどうでもよくないことなどない、どうにもならない事などない」
しかしながら、「何かができる人」みたいなところをキャリアだとかスキルみたいな権威・能力主義的に捉えると違ってきます。
この反証は簡単です。「そんなもん、○○ができてりゃ同じじゃないか」という方便が底無しにあるのでありまして権威・能力主義自体にはなんら個人を拘束する力はありません。
権威・能力主義が強迫的に個人を拘束する力を持つためには「設定」が必要になります。
キャリアやスキルみたいな能力主義的イメージは「資格検定」じゃありませんが、所謂権威主義的な認定を前提とします(自我の自由を制限している)。外部権威が何らかの行為を成果として認める実績をリードしていて(この実績誇示みたいなんが目的化しているんだが)、話の根底が自我選択とかの話じゃないんですよ。
それじゃ「権威と私」みたいな物語になってちゃっているてな話です。
「この設定こそ神の意思であり正義である」みたいな設定に対する確信犯的選択性がなけりゃ成立しない。この拘束力が強迫性をもっているなら「それは選択されたものでは無く、依存性のものだ」ってことになります(個人を拘束する”設定内容”が当人にネタバレしてないことが強迫性の成立要件だから)。
「さて、僕は何者になろうか」って本質的自由は誰にとっても普遍なのでありまして、
ぶっちゃけ「どうにでもなる」のです。「どんな人格が素敵かってさ」なんて思考が思春期に行われ、以降の人生で追い求めらていくのですが、
『最強のメンタル』があるとすれば「何者にでもなれるワケだが」と考える自我ですわね、
メンタルに強弱なんてありませんが、相対論としてパフォーマンス最大化状態であるのは間違い無い。その代わり、この『最強のメンタル』は「そんなもん、○○ができてりゃ同じじゃないか」という方便名人でもあるため、究極の怠け者となる可能性もあります(笑
それじゃあ”甲斐(動機形成に付随する興奮の証明)”がありません。
努力の快感を獲得する機会があまりにも少なくなってしまいます。
大概の自我ってものは「芝居がかった設定」であるとか「困難なお題」自ら探すものなんです。
ワザワザ苦労ネタを探すのかいなって筋書きですから、俯瞰で見ればどうにも合理性の無い話です(こいつが不条理による実存証明)。
てかね、それでも現実なのかってとこからして怪しくなりますし、芝居の脚本とさして違いがありません。
大谷「ここは160キロの直球で勝負」
(バッキューン!ズドン)
…「打者としての常識が根底から覆された、、。」
これをお題に「あの球を打つ」という轟々とした興奮と努力の”甲斐”が溢れてくるのでありますが、「たかが球投げて打ち返すとかアホみたいな話だろ、いくら凄いからってフリスビー犬になりたいとか思うか?」と考えてもいいのでありますよ(この瞬間この人大谷越えたのでありまして)。
しかし、フリスビー犬にたとえた後者には熱血野球漫画みたいなドラマ(興奮ネタ)は発生しません。
自我である以前に、人間は動物ですから。
「動機形成と行為(=興奮の証明)」これ定期的に行わないと(所謂興奮による快感代謝)生き物としての根源的欲求不満で耐えられません。
(こいつを煩悩として切捨てようとした仏教みたいなアレもありますが、これもね、、、ネコの脳内鎮静物質じゃないですが、瞑想やヨガ的手法で脳内麻薬によりなんたらみたいな部分もあるので、ちょっと違っているような、、。)
てなわけで、「何かをしちゃうぞ」って”甲斐”を性(本能)として織り込んでいるから生物なんでありまして。←そういう”関わり”が必要ないのであれば、地球の生物はそういった関係性の軽い植物だけありゃよかったのです。(自分がでは無く)人間が生まれた意味を定義するなら「人間だけが行う何かをしでかすから」ですよ(どういう理屈か知らないが自然の摂理としてそれが合理的だったのだから)。
時に大人の台詞に「現実はそんなに甘くない」なんて言葉がありますが、
言語的にこいつも矛盾しております。現実は本来可変で、それが甘くないものだという予測があたかも権威的に正しいみたいに真顔で語られても困るのですが、意図は別のところにあります。
「現実はハードなものじゃなくては困る」からです(大谷が待っているぞってね)。
困難の設定無けりゃ、甲斐ってもんが無くなりますからね。
「現実はそんなに甘くない」の裏側は「この世はお前生き甲斐だらけだ(喜びなさい苦難に努力で抗(あらがう)毎日待ってますよ)退屈せんよ」という幸福論であります(共同幻想権威主義が語る「甲斐設定アルアル論」みたいなもの→「お題は『共同幻想』設定でね」みたいな)。
何も楽して怠け者になるのが問題なのではありません。
楽して怠けていてもいい状態で、退屈せずに滞り無く欲求代謝する(幸福ネタ無しに幸福感を得る)芸当のが高度技能だって話です(先人曰く「酒びたりで鬱になっちゃうよ」的な)。
(※現代社会に唐突に登場してきた「ミニマリスト」とかってのは、後者へのチャレンジちょこっと被っているかもです。)
ともあれ、
生物は(場合によっちゃありもしない)”甲斐”を求めるのでありまして、ある意味「打てっこない大谷の160キロを自ら追い求めている」のです。結果(努力するので)疲れる事にもなりますが、そんな不快ハードルみたいな直面するアレが無いと退屈して(欲求不満から)漠然とした不安に襲われます(これがメンタルにおいて大問題)。
そもそもこの仕組みの中に生物としての進化圧力が関係してんですから(首を伸ばそうとか・羽を伸ばそうとか・時速60キロで走ってみようとか)、甲斐を自ら追い求めたとしてもなんら不思議はありません。
典型例が「高速で泳ぎ続けないと酸欠で死ぬマグロ」でしょうか。
俯瞰で見ると矛盾しているように見えますが、現象としては「自我が(困難な)未来を選択している(或いは追い求める)」のは事実です(コンチクショーの10万年後に進化がある)。
向上心なんて言葉の実体はそんな「芝居がかったアレなもの」でありまして、、。
実存主義におけるシューシュポスの神話の不条理ってのは、「自分が一生かけてやり遂げる試行錯誤の結果が出るのは100世代後」的に、個人では無く種として見て行けば合理性が成立してんよって裏もあったりするのでしょう。
(そんな事情は当事者である固体には関係が無いので、能動性を発現するために”興奮”を求める欲求が装置化されている。)
いかにも現実を知ったか行為に「ニュースや報道を見る」ってのありますが(昭和なら「新聞を読む」)、凄くわざとらしい話ですわね(笑
「うーん、なになに」なんてさ、、B級映画のシナリヲに苦笑するようなもんです。
ご存知のとおり、過去でも現代でも「ニュースや報道はエンタメ」なのです。
報道されない現実の方が天文学的に無限大に多いのですから。
未来が選択されるように、ニュースも選択編集されとります。
しかし、このインチキ臭い演出手法で少なくとも昭和までの『共同幻想』は自我の統合を保っていたのも事実であり、馬鹿にしたものでもありません。
自我にとっての現実なんて”おいしいモノ論”並みにつかみどころの無いものなのです。
美食化ならぬ、物知りほど現実が拡大する点において自我の性格的側面は減衰し(美食家と偏食家の関係で考えればわかりやすい)、自我統合そのものがロジカルな個性から観念的なものへ(実存は希薄でやなぎ腰なワビサビだけの風流な世界へ)変遷する傾向は観測できるのかもですが(この変遷は『単独者』論のような社会学的構造論では無い)、そんな傾向が観測されたら「何かがどうした」って事も無しです。
少なくとも千年スケールにおける人類の変遷なんてものは、なんだかインチキ臭い演出による現実論ってものに右往左往する毎日なのだと思います。
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