少なからず『共同幻想』適応選択は一種の依存(や丸投げ)になりますが、それが無自覚では無く確信犯的選択であれば「自立的選択」となります。
のようにですね、
鬱ケースもそうですが、メンタル問題において問題視される事の多いテーマのひとつが『依存性』になります。『依存性』の説明は随分やってきたので、今回は逆方向から「自立性」について考えてみます。
関連キーワードを出していくならば、
「自立性」と「自己責任担保」は関連項目です。
自主的な賭けであれば、その勝敗の責任は全て自分にあり、結果に対してやれなにがどうこう誰がどうしただのって話は一切出てきません。そして、その結果責任は=(買っても負けても)全て自分の成果なのであり(買っても負けても)ある意味経験・スキルの獲得を意味します。
所謂”なんとか甲斐”って奴です。
時に「責任を求められる」と受身表現(『被(こうむる)』)となった瞬間に戦犯ってかな、あたかも犯人扱いされる認知になりますが、
「ここの責任者は私です、全権は私にあり口出ししないでください」と主体的表現(『抗(あらがう)』)となった瞬間、最大の私利私欲と申しましょうか「自己の存在に関わる重大事項(資産に対する所有権の意)」と話は180度逆転します。
これは関係論というか社会学的見方として、
関係が『依存的』だったり『従属的』だったりする場合、勿論の事(受身になる理由でもありますが)そこには権威性認知が関与し、同時に階級における上限関係を示唆するような話になります。
つまりそこで語られる責任とは”中間管理職的な業務や労役”の事になり、「上から追っ被された仕事や命令」みたいな事になってしまうからです。
しかし関係が自立的なものである場合、そこに上下も階級もありませんので(自分で選択した自己責任の担保と選択と結果に対する所有権の保証があるだけなので)、極論するとそれは(自主的選択で誰の命令でも無いので)「自分のやりたい事」になるんですよ。
(興味ある方はHPコンテンツの心理学テキストX参照)
http://kagewari.cside.com/kage_tex51.htm
なかなかこの辺のニュアンスが理解され難い事あるんですよね。
それがやりたかったからやりたい事って抽象概念が出てくるのでは”無い”んです。
実のところ、言語として正しいのか怪しい「やりたい事」なる抽象概念はですな、「それは自分が主体的に自己責任を担保したことなのだから」を背景にするから(結果として具体的に何をするなどの定義無いままに)抽象概念として「それは自分がやりたい事だ」と認知されて論旨矛盾しないのです。
(HPコンテンツにあるように「やりたい事がみつからない」という言語表現は完全に使用法的に、国語的に文法的にNGであって、日本語が破綻するぐらい論理矛盾になるワケ。)
全文を書くと、
たとえば、
「何故そんな事をとか言うのかもしれないが、これは俺が自分の意思で選んだ事であり、そうしたかったんだ(これは俺のやりたい事だった)。」
●何を選ぶとかの意味では無く
「主体的に選択したのである」を条件に「やりたい事」の概念が脳内で”認定される”んです。
ですから、
選択が依存的だったり従属的な場合(『被(こうむる)』)、考えるまでも無く「主体的選択」という認定条件が崩れる事により→「やりたい事を喪失」します。
後から探して見つかるようなものじゃ無く、認定要件の話なワケ、
↓
そこに「自己責任の担保が無いから、選択や行為や結果に対する所有権が無い」のですから。
「(やり甲斐を含む)やりたい事」認知の成立条件が「主体的・自立的選択」であり=その意図は「自己責任の担保」であり=「全ての責任は俺にあります」という台詞によって「関連事象の所有権」を成立させる。
その反対は、
「私には責任がありません」=当事者条件を満たしておらず、そこで起きた事やましてや結果に対する所有権もありませんから、そこになにがあろうが(それを選んだ当事者が自分だろうが)「私には関係がありません」→関連する事象に対して「私は関係が無い」になります。
こうなると「自分が存在していない」と言っているのと同義ですから、自我内に「(やり甲斐を含む)やりたい事」認知の成立条件を根本的に失っており、生存意義すら怪しくなります(その生存の証明すら他者に依存するようになる)。←ここが鬱症状などのバックグラウンドにもなる。
■更にその選択が「主体的・自立的選択」であれば、
この認知条件は当事者として自分が行う事だけでOKなので、なにやら結果論に対して社会的説明(=偏差値的認知)を必要としません。
極論「どんな瑣末などうでもいいことであっても(やり甲斐を含む)やりたい事を認知獲得できる」のです(小さい事でも大きなことでも成功でも失敗でもいい)。←大事な事は「それを自分で主体的に・自立的に選択した」だけでよい事になります。
(何度も注釈つけますけれど、だからあえて「やりたい事」とそれは抽象概念な訳。成果や結果は”どうでもいい”事だからです。)
■その反対に選択が「依存的・従属的」である場合、
自らの存在も『被(こうむる)』形式で、他者の認知に依存する事になりますから=それは社会的説明を要する=偏差値的認知としての評価が必然となる、のであり(そりゃマゾヒスト的に最低の結果を希求する例外事項もあるかもしれなれいが)、「行為の成果が(自己責任を否定しているのに)すごく大事になる」のです。
妙な話で、行為に対する所有権も無いのに、自らの存在を他者の認知に依存するあまり「自ら行う選択や行為の結果にやたら拘る」という結果になります。
勿論、中世の奴隷制度や御領主様との関係じゃあるまし、現代社会にそんな関係性は存在しません。
(現代社会における『共同幻想』適応とは「社会契約的なもの」であって、認定されるのは社会における契約上の身分だけで、個人の存在意義や行為や結果によって個人の実存を社会が認定するなどのシステムはどこにも無い。←これが成立するのは「昭和の『家族社会』における親子関係や『徒弟社会』における徒弟関係だけ」)
結果として、行為や認知における選択が「依存的・従属的」である場合、構造的に当事者は無限に空回りするだけです(周囲も当事者がどういう思惑で何をやっているのかさっぱりわからない)。
トンデモスケールに話が矛盾してしまう原因は、
前述状況だと当事者は『被(こうむる)』受動的立場にあり、=階級社会の末端であると自ら主張している事になりますが、自分を認定する社会を誰の断りも無く(何の契約上の認識も無く)、自分だけで設定している事になります(それは神に匹敵する上から目線です)。
「あるときは自らを社会の末端だと言い、ある時は社会は自分を(このような価値基準で)認定する業務を追うのであると、逆指名している。」
考えるまでも無い事ですが、これはですね、親子関係における「自分は家族社会の末端だが、親には子供を評価し認定する責任がある」みたいなさ、『家族社会』や『徒弟社会』などに特有の固定的設定の主張なんですよ。
そんなね、血縁関係みたいに特権的な固定的濃密な社会なんてものは一般社会のどこにも存在しませんので、、、。この認知(依存性や従属性)を一般社会相手にそのまんま投影してしまうと、世界のどこにも存在し得ない物理法則を絶叫しているみたいなド・ナンセンスになります。
この構図がもう「妄想・妄言状態」なのですから、現実との乖離に悩む事になります。
繰り返しますが、
●その選択が「主体的・自立的選択」であれば、「どんな瑣末で”どうでもいいこと”であっても(立ち食い蕎麦カレーライス論争でも)やりたい事を認知獲得できる」のです(小さい事でも大きなことでも成功でも失敗でもいい)。←大事な事は「それを自分で主体的に・自立的に選択した」だけでよい。
その行為単体には何の労力も必要ありません。←『依存性』を切り、自我の自立性・主体性を回復させる事が最優先になります。
「この選択の責任は全部自分にある」と躊躇無く言える=自己責任(所有権)を担保した自立的・主体的選択・意思決定プロセスの回復です。
(やりたい事を認知するため=自動的に「努力のし甲斐」も派生するため、行為としても「やりたい事だったので猛烈に努力した」に転じるのが自然。←その努力が選択の自主性を証明する循環となる。)
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