掘り下げて考えてみます。
※ひとつ参考になるので少し前のエントリー参照ください
ワーグナーとへヴィメタル
http://kagewari.seesaa.net/article/422011240.html
えーっとですね、
『共同幻想』ってのは「共有化された(神話や概念などの)幻想」って意味ですから。
一番わかりやすい例が「宗教と信者達」の関係です。
或いは前述エントリーのワーグナーじゃありませんが、クラッシックになどの「楽曲のテーマ」も、そう設定された幻想です(映画で言えば「これはフィクションです」)。
シンプルな例だと「貨幣の信用」や「国籍認識・民族意識」や「言語」もそうです。
最近書いた「超自我論」と被っているんだけれども、『共同幻想』は「超自我の共有化(クラッシックの演奏で言えば譜面の共有)」に限りなく近い概念であり(拘束強い事例だと絶対君主の正統性認知や所属宗教の正統性認知など)、
必ずしも単一なものでは無く(会社員なら「アフター5は個人の時間」となる)、
その時その時帰属が認知されている当該集団との間に形成される「共有化現象」です。
(単純な「集団心理」のことでは”ありません”。)
超自我ジャンルの「道徳倫理や正義感・社会的コンセンサスから、貨幣や言語の基本的価値や前提となる設定や、希少性・重要性のある情報と”その解釈”の共有(昭和の新聞制とかだね)や一般常識など主に『自意識マター』の更に”上位概念”に属する事項」←これらが主要な『共同幻想』ジャンルとなります。
↑
『当該所属社会の関係性』と符合する『共同幻想』がその都度適応選択され「あたかも役者が”課せられた”多数の役を演じ分けるように」上位概念が「場に応じてクルクルっと変化する構造」を持ちます。
オーケストラの演奏家も演奏会の帰り道に小規模室内楽をやれば別の『共同幻想』所属に変化する。
勿論超自我マターに限らず、社会の運営に関わる一般常識も含まれ(服装など)、
その共有化の範囲は「規定も制限もありません」当該社会の事情で勝手に変化します。
所謂”その小集団なりを束ねる上部概念関連項目”は何であれ全て『共同幻想化』します。
(そこ成立しないと『共同幻想』組織はヒエラルキー構造にならない。)
注:近代以前は『共同幻想』の中身を所属個人が論議する事すらタブーで、王の命令や革命でも起きない限り中身の入れ替えは無し(超自我には本来入れ替え機能があるんですけどね)。
明治維新以降でも「どれだけ迷信と呼ばれようが村単位で近代医療を拒否する」とかザラに起きてます(現代でも先日エボラ出血熱の時にアフリカの地元住民が国際医療団を攻撃したりしてましたね)。
現代社会においても所属社会のコンセンサスを得ないと中身の入れ替え論議はできない。
(「あれ?なになにだよね?」同意を求めつつ語尾は疑問系となる。)
明治の健康診断やエボラの例にあるように「いかに説得する側に鉄板の合理的根拠の明示があっても」容易に『共同幻想』は壊れません。→「悪魔の使者だ」みたいなノリで悪者扱いされ徹底抗戦されるのが”落ち”です。←極論すれば「その論理的証明の必要も無い」。
前述は勿論「ごく普通の『共同幻想』適応系の人達の話」ですが、『共同幻想が』強迫観念化し「強迫心理」となっているメンタル問題における自我防衛でも、勿論『共同幻想』適応一般と同様に激しい抵抗が発生します。
それは「強迫心理」が『共同幻想』同様に内部的には道徳系上位概念なので(=超自我系)、
自我内において『自意識』に対し比較”上位”の概念だからです(ザックリ言えば”憲法”)。
しかし近代以前の『共同幻想』も社会学的変遷(所謂産業革命に始まる社会的コンセンサスの大転換)によって大規模崩壊し、高度経済成長系の『共同幻想』へシフトしてきました(ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ)→これが先進国化への始まりです。
(勿論現代社会に至るルートでは「民主主義」という社会”コンセンサスの変更可能制度の確立”により、『共同幻想』の変遷が「社会的入れ替え選択」みたいな形でその都度選挙などにより施行される形になります。←民主主義は言うならば「革命権の自由化」みたいなものです。)
注:一般常識や日常の共有化ジャンルとなると、旅行時の記念撮影(証拠写真の共有)やおみやげ(旅行先産品共有感のアリバイ)などなど「全員参加の旅行で”なくても”抜け駆けや情報の個人所有を認めない」その情報共有化は場合によるとプライバシー領域に及びます。←勿論旅行の理想系は所属社会の全員参加。
”おみやげシステム”の性格上、同じ商品が羽田空港にあるから羽田で買えばいいか←どうしてもこれは禁じ手であり、面倒なので羽田調達みたいな行為に”おみやげシステム”は罪悪感を発動させなければならなない。←ここにも超自我特有の道徳的縛りかかっていますね。
昭和に見られた「温泉旅行でハダカの付き合い」も同列で、『共同幻想』共有感や”共有密度・濃度”は「秘密の共有(希少性=上位価値概念)」により更に高まる法則がある。
●プライバシーの喪失と引き換えに共有水準は上昇するため「すっ裸の共有」は強い連帯感を演出する。←恋人関係における「裸の付き合い」も同じ法則であり、共有される情報は単なる裸から更に恥部の公開に及び『共同幻想(恋人関係幻想)』密度・濃度を増す結果を生む。
モスリム社会の場合「嫁の顔は家族内にしか公開しない」ってありますが、ここも『共同幻想』の優先順位をよく表していて、アラブはどちらか言えば現代でも氏族社会であることを証明してます。
■さて、話は原則論に戻りますが、
中学生の日常で言えば、
「修業時間はクラス階級社会との帰属」「学校アフターは友人社会との帰属」「自宅では家族社会との帰属」「更に細かく言えば食事の後は兄弟社会の帰属」などなど、舞台設定の変化に応じて”課せられた役回り”やシナリオ(設定)も変化します。
それに応じて人物名の呼称までも変化し(極論別人格を演じるぐらいの差異がある)、
「修業時間はクラス階級社会との帰属で”何とかさん”」「学校アフターは友人社会との帰属で”何ちゃん”」「自宅では家族社会との帰属で”何子・何男”」「更に細かく言えば食事の後は兄弟社会の帰属で”姉ちゃんや兄ちゃん”など」
↓
サラリーマン時代の場合
「就業時間の帰属は”何さん”や”課長・係長”」「アフター5は”何ちゃん”」「キャバクラでは”何〜さん”(昭和なら”社長さん”)」「浮気先では”○夫さん”」「自宅で妻が”おとうさん”」「トイレと風呂で”俺”」
↑
極論すると表立って見せる姿は全て別人格であり、この表だって演じている自分こそが「共有化・帰属向けの私」であり、その時『自意識』は抑圧されリミッターがかかった状態で運営されている(俺の顔に戻るのはトイレと風呂の中だけ)。
『共同幻想』適応ってのはある意味演劇みたいなもので、「ユニフォーム型適応」とも言える世界となっいるため「服装(この役この衣装でいんだよね?)」なんかの共有が重要になる。
「スーツ着てネクタイ締めるとサラリーマンの顔と人格が登場する」みたいクルクル展開するような使い分けが成立する。「ネクタイ緩めてアフター5のスイッチオン」みたいな。
或いは日常時でも「作業着の、腕まくりして、本気出す」とかですよ。
(参考:能における面の付け替えも”演じられる自我”をよく表している。←素顔を出してはいけない。)
更に戦国時代や江戸時代なんてなると年齢別変遷があって
「幼児期は”なんとか丸”」「本名は”なんとか蔵”」「元服した後”あざ名”を名乗り」とここに官名やら更に複数あり本当の本当はスゲー長い名前になる場合もあった。
所属・帰属社会に応じ「極端に言えば自分の名前から人物像まで(配役上の枷として)変化した」わけです。
●音楽家で言えば、
一段目「ナントカ交響楽団のホルン奏者」
二段目「帰り道に仲間と演奏する室内楽ホルン奏者」
三段目「休日はJAZZ仲間によるトロンボーン奏者」
四段目「自宅では趣味の古楽器で民族音楽を」
『共同幻想』適応選択の場合、それぞれに呼称があり(極論演じる人物像も変化する)、プライバシーをどの部分までどんな種類に共有(自分サイドから見れば”喪失”)するか、加えて物理的拘束力(優先順位)など重層的にヒエラルキー構造で構成されます。
(ナントカ交響楽団に自慢の古楽器持って”ピー”っとやればもうテロ行為。)
■■重要なポイントですが■■■
「自分の(利益を含む)プライバシーを喪失を交換条件とするから、自分が喪失した部分を”共有化された別人格の仮面”で、課せられた役を演じることが可能になる」ワケですよ。
内面における個人として認知される『自意識』には完全にリミッターがかかります。
サラリーマンのスーツってものは、内面の自我を抑圧する「拘束着」のような機能を持っているんです(その時には”名刺の男”になる)。
たとえばですよ、
■「オーケストラの演奏家という”身分”」である場合は勿論「好き勝手に演奏できません」。
「指示どおりに演奏する事に宣誓し契約している」ワケです(自由演奏にリミッター)。
それと引き換えに「オーケストラの演奏家という”身分”(当該社会の地位)」を得ます。
上記の関係性は「セットで均衡」してるんです。
「それに宣誓するから←→所属先の身分が確認される」
すっごく端的に言うと「私を捨て、苦役に進んで契約する事で身分を得る」のが『共同幻想』であり、報酬は「とてもひとりでは演奏不可能なオーケストラの偉大な演奏家の”ひとり”に加わる」ことです。
(経済で言えば「国家の経済成長の一翼を担う」←個人で世界経済No2のGDPを叩き出すなど不可能なんですからね)。
■どっち道、その獲得する「身分」ってのは(能面)、プライバシーの喪失と交換条件に(情報バレによる喪失だったり・抑圧だったり・時間給で売却したり)「契約」によって獲得されるのだから、
■■「不利益・不快の選択と決断」無しの『共同幻想』適応は理論的にあり得ない■■
『共同幻想』参画の喜びとは「進んで不快を選択すること」にある。=「何々に宣誓し道徳や正義や権威性上位事項を選択したのだ」←これが成立しないと「確定する身分がさっぱりありがたくも無い」ことになるんです。
言うならば「正義と契約する時に支払う契約金が自分を捨てる”不快選択”」。
そういう契約ですから。
買い物で言えば「狙ったものを購入」←お金を支払う不快感の選択ですよね?これで購入を確認できるんでしょ(そして「この商品は価値がある」という価値認知という自身の”上部概念”を証明する=自我のレーゾンデートル)。
そして消費行動って買って喜んでるでしょ(不快選択によって得る”上位概念”証明の幸福)。
「商品を購入してるだろ」って?
単純に商品の価値だけが”アレ”なら盗む方が自分の利益は大きくなる筈で、社会における公正な流通って原則に”理解を示し適応する”行動全体を発動させる動機形成にはなり得ません。
「消費行動それ自体の快楽」の証明無しに「買い物依存」や「今日はパーッと贅沢に使ってストレス解消」「釣りはいらないぜ、粋だねぇ」行為をどう説明すんの。
(勿論「万引き依存」は”その反動”なのだから→「本当は購入しなくてはいけないものなのに」という欲求が強い事を裏打ちしている。)
↓
貧乏で怒る時って支払う金が無いからです(金を失う行為で『共同幻想』にリンクする不快選択肢が足りない→多額の消費行動を選択すると”上位階級”気分が味わえる)。
●『共同幻想』参加の喜びは契約して支払う自分(個人的利益の喪失)という不快選択に満足が派生するワケ。→だから私服では無く、お仕着せなのに「レギュラーユニフォーム」とか貰うと感動するんです。←劇団でいえば、専用の衣装のある役がもらえた瞬間ですから。
↑
実に簡単な話で、
だから現代社会は「社会的地位や出世に拘らない」「友達はいなくてもいいか」などなど、アンチ『共同幻想』な『単独者』時代の到来となっており、
「プライバシーの価値が相対的に上昇したため」契約上の交換価値というか経済均衡論的に『共同幻想』適応組織率が減衰するのは当たり前、それはわかりやすい自然現象です。
社会が文明化を選択した場合「必ずその流れ」になるんです。
(私服の趣味性が高くなり、ユニフォーム価値が下落した。→象徴的転換点は「高級ジーンズの価格が吊るし売のスーツより遥かに高額になった時」などなど、)
■最も小規模な『友人単位社会』
ここにおいても、基本は同じで
「私を捨て(自分の自由時間を差し出して)、苦役に進んで契約する事で身分(友人の認定)を得る」のが『共同幻想』です。
↑
この当事者意識が無ければ『共同幻想』適応は成立せず排除される側になります(そこで私的な個人を名乗るだけでテロ行為となるため)。
契約の申し送りは「あなたは何を犠牲にして、この組織で獲得する身分を喜べる人ですか?」みたいなことになっているんです。
自ら進んで私利私欲を捨てるポジショニングにより成立するのが『共同幻想』なので、極端に言えば獲得する利益は「公的利益のフォルターを通して間接的に受け取る」となります。
ぶっちゃけそこは「僕はなんとかの一員となったのだ」みたいに”社会契約”そのものを喜びとして自己補完しないと追っつかない。
ぶっちゃけ『単独者』論的証明と同様に「結果論には関係が無い」のだから、上記構造は何ら問題では無く筋論です。
(公益フィルター通して間接的に得る利益は公正に分配される事など”無い”からです。←「確かに『共同幻想』適応においてその内部では”ポスト配分”や”出世競争”などは重要事項だが」本質的にはその順位序列を規定する更に上位の権威性認知そのものに自分が帰属する証明がなくては話は始まらないので、地位が末端であっても正式呼称の身分名があれば基本給的性質の平等な成果を得ていることになる。←なんつーか『共同幻想』の内部競争は当該社会の”エンタメ”みたいなものです。「上映される劇団の演目」には関係が無い。その作品を演じた組織の一員であることの方が価値が高い。)
●たとえば小規模な『友人単位社会』の参考として、
極端な事例として韓国の場合で考えます、
韓国社会は強度の権威性秩序社会であるため、その『共同幻想』の縛りも強烈で、
「ひとりで飲食店に入る事も通常あり得ない」社会設定となっています。
故に、町の有名飲食店に出いるするにも「友人や家族の同伴」が必須となり、
飲食店文化なる公的資産を享受するためには、私的利益を捨て「友人社会における身分を名乗る」必要があるワケです。
(※勿論この場合の単独者的反抗とは、自宅で趣味性の高い料理を自分で作ってみることです。←成功失敗などは結果論なのでどうでもいい。→ここは町の飲食店とやらに行くため獲得した「友人関係の身分」により実際に行った先の飲食店が本当にうまいのかほとんど関係無くなっちゃう心理と同じ。「へ〜こういう味がするんだね?」)
社会のレジャー施設や観光地は多かれ少なかれ同種の傾向があり、
そもそも「社会のレジャー施設や観光地」ってのは国家としての経済成長の社会的報酬なのですから、当たり前です(国家的経済成長あっての保養地ですからね)。
●なので「公的宿泊施設」なんてーのもそこに含まれる(地方自治体住民以外の人には利用に制限がある)。→もっとわかりやすい例だと会社の福利厚生で提供される宿泊地を会社と無関係な個人は利用できない。
(これもそうだけどさ「実際その保養地どうなの?」という結果論にはほとんど意味が無い。「へ〜こういうところなんだ?」)
つまり、その報酬は所属する『共同幻想』の神話と強い関連性があり、
「自分が宣誓した契約と、契約金として支払う”不快選択”」←セットで一体だから、なんとなく間接的に分配される報酬は”神話関連”となる(会社なら給与や賞与)。
「町の楽団に是非参加したい」という確信犯的選択があれば、付随する世界(関連する世界への出入り身分を獲得)の公的報酬も「私的利益を捨てる交換条件として割が合う」と認識されます。
↑
買い物で言えば「狙ったものを購入」←お金を支払う不快感の選択→その商品の価値を定義する上部概念の証明。
(自分もその値段の正当性が合理的であると認める社会の一員であると証明する行為だから→喜んで不快選択(支払い)をする。→「このブランド知らないの?幾らすると思ってんだよ。」)
■これに対して『単独者』の消費は幸福感が金銭支払額と比例する構造に”無い”ので、そこそこ食えればド・貧乏でも”殊更何とも思わない”(かなり高い水準の貧困耐久度を持つ)。
数年前に杉並区に存在した『単独者』実験(左翼パロディの)自称NPO「ダメ連」のように、ド・貧乏とサバイバルを趣味として面白がる場合すらある。
『単独者』はその商品価値とやらの共有にも関心無いし、『共同幻想特有』の多額の消費行動が上流階級気分を味わえる構造なども、何がなんだかさっぱり理解できない。
注:「ダメ人間」は大槻ケンヂ氏の歌に始まる『単独者』を暗喩とするジョークの一種で勿論褒め言葉の意。)
●決して「友人関係って素で楽しいものだから」なんて理由にならない理由はどこにも実存しません。
バックグラウンドの関係性に自ら進んで参加した意識があるから(公的に提示される幻想の選択)、間接的な報酬(何々の一員となり集団が提供する催しに参加できるなど)を割が合うと体感できるのです。→「関係希薄な友人同士の旅行は楽しくない=関係希薄な組織の旅行は”親睦会”などの企画で関係を深める企画が必要になる」。←それが無いと「単なる強制連行・拉致監禁になるから」ですよ。
↓
つまり「公的に提示される幻想の自立的選択=不快選択」抜きに、「友人関係は楽しいから」などの報酬を想定していたら、それは単なる”依存欲求”であり迷惑行為(当該社会の私物化動機)になる。
端的に言えば、
『共同幻想』適応の実感とは→私的利益を捨て「当該社会における身分を名乗ること」であり、
表面的には何ら約束された報酬は無く(報酬は公的ルートで間接的なので)、勿論間接的に分配される公的報酬が常に市場原理で公平になんんてのすら”約束されない”のだから、
「私的利益を捨てている不快実感」こそが、直接的に確証可能な”生き甲斐”である。
(自ら進んで個人の不利益を前提として”何かを選択するから”『共同幻想』は成立する。)
■『家族社会』の起業で言えば、
同様に「自ら進んで個人の不利益を前提としてこと『共同幻想』は成立する」のだから、間違っても「家族は楽しそうだから」などの理由にならない理由(ぶっちゃけ依存動機)では成立せず崩壊する。
『家族社会』の起業の安定性はひとえに
「自ら進んで個人の不利益を前提として『所属社会』の身分を得る」←それ自体を自らの間接的公的報酬と認知しなければならないし(具体的報酬を予定するのはナンセンスなのだから)、
直接確証可能な”生き甲斐”とは「たとえば父の身分を得るため、これだけの個人的利益を捨てた(契約の証明:レジシート)」という不快認知こそが喜びであるという認識によって初めて安定する。
逆説的に言えば「父の地位を得た以外は、全て不快事項しか無い事を同意している(望むところだ)」みたいな自虐的史観みたいなもの無しに安定しないワケです(昭和で言えば浪花節)。
「積極的に不快を選択する(そのために成立する組織なりの実存を尊重する選択)」ぐらいのわかりやすい自覚が無いとまず失敗します。←「これが婚約ブルー」って奴だからね。
(※子供世代に関しては「○○家の○男なり○女」なりの身分と引き換えに、個人的利益を捨てる事。)
「誰それだれべいなる人物(私)を殺し、だれだれ家の主(父)となる」←ここに『家族社会』における『共同幻想』適応は成立し「だれだれ家の主」という新人物が誕生する(身分の獲得)。
(※そこに帰属することは構造的にストレスだから→浮気文化ってのが同時に成立する。)
■「積極的に不快を選択する」←マゾヒストなの?と思われるご意見あるかもだけど、
全く不自然な事ではありません。
「健康のために腹筋とスクワット始めよう」←やる事は苦役と決まってますが「実現の保証は無いが、その先にある世界観(細身健康社会の幻想)への参加(社会的身分)」を交換に誰の人生においてもリアル『単独者』においても(この場合幻想では無く個人の趣味性”体幹鍛えるかな”のため)普通に選択される動機形成です。
その不快がより不快であれば更に(トレーニングはハードな方が)充実感は(実存感)高まります。
「だってそういう仕組みの取引やってんだから。」
↑↓
買い物で言えば「狙ったものを購入」←お金を支払う不快感の選択→その商品の価値を定義する上部概念の証明。
(その値段の正当性が合理的であると認識するから→喜んで不快選択(支払い)をする。)
考えるまでも無い事でだし、且つそれは期待値として世界観や趣味性なので「実績をあてこんだものでは”無い”」のが特徴です(ここは『共同幻想』社会における間接的公的報酬が市場原理のように適正に分配され無い事も是とするところと同じ)。
苦役を選択する事自体に意味がある(結果は関係が無い)。
快不快原則から言えば、
興奮があるから快感代謝となる動機形成があるのか?快感代謝となる動機形成があると興奮を伴うのか?←ここはニワトリと卵論であって、どっちでもいいのです。
「こんだけ不合理なほどの不快な水準のトレーニングを選択した」←同時に興奮が派生します。
これが不快選択による快感代謝です。
ある意味、不条理な選択を日常化すると、快感依存性の行動は沈静化する。
(『単独者』の行動原理も「結果は”どうでもいい”と定める不条理動機なのに、努力の意思が衰える事がない」不条理性あるほうが←「それを選ぶのが俺だ(俺は何者か)」という存在確認度は高まる。)
■現代社会において(そりゃさ政策課題が「保育園=全部世帯で育てたくない」なんですぜ?)、
間接的な公的報酬を割が合うと体感できない場合(幻想インセンティブの崩壊:幻想のホントらしさの崩壊)。それが動機形成されないのは当たり前で(所属身分として”何者にもなれない”のだから)、
「非婚・晩婚・少子化・無子化」が促進するのは当たり前で(苦役選択で証明できるものが無い)、
暗韻として、子供は社会で育てて欲しいというニーズが表面化しているのだから、
仮に政策として少子化を検討するならば、
「間接的な公的報酬を割が合う構造」を政府が提示(実存薄まった分を公的に負担)すればよい事になる。
(保育園充実の更にその先には「公的保育の拡大」であり、「限りない世帯の保育負担の軽減ベクトル」となるでしょここ。更に「そのほうが子供の安全も保証できる」んだからね。)
シングル子育て世帯の促進や子供手当てもそこに属する。
更に文明論的に言えば、
「折角自分を捨てて獲得する父という身分」がですな、人生100年の中で20年ばかしでしかないのだから、高寿命時代においてその身分が「契約社員程度だろ(”称号父”以外時代が60年もあるのにさ)」と認識される以上(苦役選択で証明できる役職が最初から閑職化する)、
「自ら進んで個人の不利益を前提として『所属社会』の身分を得る」←ここの達成感(実存感)もさ凄く希薄になっちゃうんだよね(徴兵制度における軍のへの忠誠みたいに帰属が薄まる弱まる)。
苦役による快感が薄くなっちゃうワケだよ。
象徴的に言うと寿命が延びすぎて「誰かの父として死ぬ事ができない時代」なんです。
逆手に取って「父という称号の永久欠番化」←こんな企画しようにもだ(笑
それが成立するには「巨人軍は永久に不滅です」でなければならない。
ところが、「家制度」なんてとっくの昔に壊れていて「時限性のもの(子供成人年齢で会社整理)」となっているのだから、「それはどこの永久欠番ですか?」となる。
全く無理筋なワケですよ。
■時代は『アンチエイジング世代の台頭』に爆進中であり、
相対的に「認知される個人としての利益が大きくなる(=捨てる事にどんどん割り合わなくなる)」
これが『単独者』化の流れです。
ある意味現代社会の『家族社会』成功の鍵は「それが刹那な契約社員的身分であることを積極的に確信犯的に自覚している選択」となるので、「勤続20年のナントカ」みたいな時間制限のある世界観とか、文化ってものを主体的に選択した場合になるよね。
「一人の時代が長いんだよ、そこにあるのは勤続20年の時間制限のある結婚世界でしかないのだ」みたいに。
↑↓
そこで『歩留り』再選択されてるのが、
『無子婚』←晩婚化が暗示してんのがここ。
(不妊治療なんてのははっきり言ってメンタル問題の方を疑いますね。)
潜在的に何故この志向があるのかって言えばさ、実に簡単で、
「家族社会を前提としない結婚」であれば、「社会的身分”父”を得ることをせず、最初っから社会的地位”夫”だけでいいなら、離婚するまで永続だから」ですよ。
(オーケストラとバンド音楽の話じゃないけども「それは幻想性の小スケール化」であり、『共同幻想』崩壊トレンドにおける現象である。)
しかし、
現代社会の場合法律により「事実婚」が認められており(そもそも国に婚姻の登録するのは子供の登記など家族制度との関係のため)、わざわざ事実婚姻関係を報告する必然性はどこにも無い。
(結婚式なんて儀礼も「目的は跡目相続の襲名披露式」なので、○○家なる社会性と跡継ぎ制度への帰属あって始めて有効。)
そもそも国に伴侶を報告するのも「秘密の共有による『共同幻想』密度・濃度のため」なのだから、個人サイドで言えば即効「プライバシーの侵害」なんです。
すべからく(法的には事実婚でも財産相続などに不利益も無いので)、「入籍しない事実婚的関係」が増えることになる。←多分ここが社会的に認知され”何か変な呼称”が決まると「非婚派」の一部は「それなら」と事実婚派への転向もあり得る選択だと思います。
(「出来ちゃった子育て」が派生しても「社会が育てるシステム」が整備されればリスクとならない。)
↑
このスタンスって『共同幻想』適応再選択志向の人に対しての話ですからね。
●勿論の事、リアルに『単独者』志向の人も増加する前提なのだから、
非婚が過半数超えても驚きません。
それじゃ人口減するのでは?な方もいらっしゃるかもですが、
非婚が過半数超えるなんて『単独者』時代になれば、文明は「社会が子育て」に完全シフトしているので、「出来ちゃった出産のハードルも下がる」時代になっている事を意味します。
性行為における避妊は「専ら女性個人に全権任される」のだろうし(←これが60年代米国で夢見たウーマンリブです)、
この時代の社会は「出来ちゃった出産も奨励する」でしょう。
『家族社会』の崩壊による「無子婚や事実婚へのシフト」と同時に「母子だけ世帯の優先シフト」も発生する事になります(既に少子化対策が表面的に成功したフランスは結婚によらない出産が50%超えた)。
その時代には子供の乳母や養父が「社会クラウドに接続するAI搭載なんとかロボット」な〜んて事になっとるかも知れません(出産世帯にはもれなく家事支援ロボットを支給)。
↑
これを大問題なんて言ってたら戦国武将の子育てや皇室の伝統的子育て全否定になっちゃいますからね。
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詳しい経緯は下記リンク及びサイドバーコメントリンク表示の説明参照
コメント欄の削除があった件(関係障害について)
http://kagewari.seesaa.net/article/402054291.html
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