2005年06月08日

精神分析的視点(2)家族を考える

これも誤解されやすい。
「家族」ってのは社会が定義する雛型に倣うもので、左翼の活動家の家庭が「夫婦別姓」や「子供の人権(日の丸・君が代)」等で特徴的な行動や判断をする事で、その方向性には異論は無いだろう、根底は“保守”になる。(アメリカ大統領戦なんかでもよくポイントになるが「家族」なる言葉自体が「保守」を意図している)

つまり「家族的」=「保守的」を意味するので、本来背景となる伝統や名誉、地域社会などとの関係の延長として普遍的なイメージが付随してこないと、家族は「最小単位の孤立したバンド(band:群れ)」に過ぎず「常識なるもから乖離する」。
常識っていうのは、多数に支持されている「超自我の裏付け」なのだから(たとえそれが方便に過ぎなくても)こいつが後退すると精神的な不安(ストレス)は相対的に増大する。

別段自分が保守派だとか、そういう話をしているのではない。
常識であるとか普通であるとかに連なるには、それを担保する背景が無い事には「しょうがない」んであって、どうにもこうにも“常識(リアリティー)”というより「何が良くて何が悪い」みたいな紋切り型の表面的道徳になりがちになる。
まさか「俺(性別はどちらでもいい)について来い」ぐらいの勢いの人物が「この家はこの信念の元に!」と号令を挙げれば別になるが、そうだとしてもそれは「何か信念のあるベンチャーな家」であって“常識的な家では無い”だろう。

つまり、文明化で「家族」なるものが漂流し孤立するということは、常識の母数が衰退することで(この辺が「最近の社会はマナーが悪くなった」とかの原因になる)、家族に所属する個々人にとっても「そうそう居心地のいいものではない」
「育児不安」「家庭内暴力」「家庭崩壊(学級崩壊の前段)」「精神的葛藤の発生要因」「地域の問題家族」、、、、。

現実どうなのかって、このカウンターとして「個性化」等の旗を公は振ったワケだが(西洋はEUなどの新手の「保守化実験」を試みている)、絵に描いたような個性なんてものが忽然と生まれる筈も無い。
元来動物の群れとして、かなり有力なコアは「母子関係」ぐらいなもので、後は環境が変わればどうにでも変化可能なんであって、文明化による家族の孤立化は避けられない状況下にある。


精神分析的には「共同幻想の担い手としての家族が、弱体化することは自明」って事で(共和党じゃないが「再建しよう」とかの意味では無く)、これにいかに対処するのかって話は深刻なテーマのひとつになっている。
フロイド時代のヒステリー症状なんかの背景には「当時の厳密なカソリック的常識の後退」が背景にあるのであって、精神的な悩みは「共同幻想後退下の典型的な社会現象」と考えていい。
タグ:メンタル
posted by kagewari at 01:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


この記事へのコメント

この記事へのトラックバック
comments他

・コメント欄は『公開掲示板』同様に原則削除禁止です
(基本的に削除依頼には応じられません、削除依頼は投稿禁止ワードとなってます)

・SPAM対策として一部キャリアからの投稿がIP規制の対象となってます
(同規制キャリアから登録抜けによる投稿がある場合、投稿は自動削除されると同時に規制IPに追加登録されます)



現在コメント欄閉鎖中 (2014.7.26〜)



タグクラウド