”結”や報告性・説明性(或いは物語性)が話のサビ的に重要視される「共同幻想」的な話を『起承転結』シリーズでやってきましたけれど、その典型である”ドグマ”だとか”神話性”なんてものを考える上で、「そもそも『共同幻想』ってものそれ自体が大風呂敷の物語なのである」と言い切ってもさしてハズレでは無いと思うのね(心理学的に言えば「故にそれは幻想である」)。
うーんとね構造としては必ずしも『共同幻想』が大風呂敷になることは決定されているのではないのだがー、その周知性と構造としての権威性から「半ば自動的に構成員の数に比例して話が大きくなる」=逆に言うと「救世主や奇跡やカタストロフみたいな大風呂敷広げた話をぶち上げると母数の大きな『共同幻想』に発展する可能性が高まる」ともいえるわけだよ。
その正統性根拠となる権威性(市場性でもいいけど)そこ単体で見てもだね、ヒエラルキー構造でかくなれば上はさすっごく偉いって幻想が通用しないと社会学的に破綻しちゃうわけだよ。
一見すると日本の官僚や首相は米国大統領のような神話的カリスマみたいなイメージくっついてこないから「そうとは言えないだろ」ってご意見あるかもだけれど、日本の場合世間様として所属する母体となる社会(霞ヶ関や政界と見れば)それ自体に”お上(かみ)”としての神話性があるワケ、
すごく極端な事言えば、でかくなる=誇大妄想なのでありその誇大なイメージは演出されたものだし結果として「文明化の後に迷信としてメッキが剥がれるような代物」なんですよ。
実際人の上に人をなんとかじゃありませんが「同じ人間そんなに違ってどうする」って生物学的判断交えるとその”偉いことになってます”を真に受ける事はもうたいがいに芝居がかった幻想なのは誰にでもわかることになってます。ネタバレに困る事も無くね、
事実日本においても近代・封建時代なんかの”お殿様”のなんだか偉いんだろうなって幻想・神話性と昭和以降の”社長のの人間宣言”みたいなスケールダウンは殊更論証の必要性も無い。
(ことほど左様にこれはスケールダウンしていく)
何度も説明していることだけれど一番わかりやすい事例は「昭和には”大歌手”という存在があるが、文明化が進むに従って所謂芸能人の神話性はガタ落ちする」のです。
この構造を俯瞰で全体像から見た場合「共同幻想だね(妄想と言ってもいいかもだね)」となるワケさ。←かといって王長島や美空ひばり先生の偉大さに何か殊更ケチをつけようって事では無いのだわ。
相互補完関係というか、同時に「デカイ舞台設定にその人が答えた」って部分もあって(現代社会には昭和の天覧試合のような”ひのき舞台”が無いのだからさ)舞台装置がスターを作る的世界は構造として瓦解したのであって仮に何かの拍子で現代にもそんなものがあればどこやらから真性スターの誕生もあるかも知れないのであり(現代社会では構造的にその発生構造が無いってところがポイント)、ある意味「社会的反動形成がビシバシだった時代」といのを社会は古代文明から近代までどーんと繰り広げてきたワケだよ。
(なんてーのドーム球場もデカイけどさ、古墳のスケールに負けるねみたいな。)
すべからく「共同幻想」は支持者や信者の母数とその神話性やトンデモスケールが保管関係にあるのです。故に「共同幻想」は”信じるもの”と考えてもいい(所詮”ドグマ”なんだからね)。
『起承転結』の物語にエンタメ的感情移入して集団心理興奮状態を体感するって世界観でもある。
■ここでひとつの鍵となる部分だけれど、時折心理学テキストで触れてきた『歩留まり論』や、「確信犯的『共同幻想』保守思想」ってのはどういう事になるのだろかって、
所謂「現代社会の『共同幻想』保守論とはなんぞや」って話です。
それはズバリ”選択”だとね。(信心や集団心理トランス状態では無く個人の意思だから)
事、それを『共同幻想』を前提とする場合「ナントカ”愛”」という事になる。
ここはHPの心理学テキストなんかで説明してきていることだけれど、”愛する”ってのはあっても”愛される”ってのは無しだから(まんま『被(こうむる)』になるから)。「主体的に(あるいは個人が勝手に)”愛する”」事によって成立すんだけど、「郷土愛」だとか「愛社精神」だとか「伝統芸能への愛」や「家族愛」などなど「ここに権威性を僕は認め選択した」という関心強度というのかな、これをエイヤで選択する(賭ける)って行為によって現代社会以降もそれは成立し得ます。
いずれにしろそれは「単にナチュボーンで疑いが無い」的な”なんとなく妄信”のような古代・近代などの関係性ではありません。
現代社会においてそれは『共同幻想』適応選択保守であっても「自分で(自己責任を担保に)選択して(賭けて)合理性を肥大化させることなく発現させる」必要があるのであって、主体的な考え無しには成立せんのです。
実はこの辺の在り方は『単独者』と全く同じで、
ここが時代の変遷で「あたかも全員が『単独者』を選ぶのが正しいみたいな風に勘違いされると困る」って話のコアだよね(そもそも前文では正しいとかの権威性を持たない『単独者』が正しいとか言っちゃったらもうパラドックスなんだからあり得ないんだしさ)。
『単独者』と同じ構造で「歩留まり選択」や「『共同幻想』保守思想」は成立する事になるワケさ。
(※じゃあ前の世代のように”ナチュボーンのなんちゃって妄信”な階層は現代における社会的ネタバレを前にどうなるの?って答えは説明するまでも無く”ネタバレ興醒め”による不安ストレスを当該自我は抱える事になるって構造です。)
つまり現代社会なるものは「信じる」のでは無く「考える」時代への変遷であり、
人間は考える葦であるの話じゃないけどさ、
そういう事なんだわ(我思う故にとかも同じだし)。
『起承転結』の物語を信じる時代が終わり、
これからこのストーリーはどうすんのかって、アドリブで次を考えるって(←この論理構造で考えると”結果に意味が無い説”わかりやすいのじゃないかな?)「現実”的(っぽい)”イメージ世界を信じるのでは無く、現実に対峙し”どうすんのか考える”というルートへ変遷しているワケさ。
(※至極わかりやすい話で、近代以前はそんな大風呂敷で社会を糾合し特定の方向や目的に誘導しなければ人類は特別に恵まれた南国の楽園でもない限り”食えなかった”のであり、先進国化によりともあれ生存の心配が無くなっている背景の変化はとてもつもなくデカイ差異なのです。)
ひとつの典型が『単独者』になるねって話なんだわね(典型例で全部がそうなるとかじゃないよと)。
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