これが『考える』というテーマを”考える”とっかかり的にわかりやすい事例じゃなかろうか、
事件捜査という典型的な事実究明の場において、タレ込みや断片情報から事件の全容(所謂『事象』)を認識する場合「なんらかのシナリオが無ければそもそも何があったのか捜査できない」のですよ。
(※ですから東京地検の捜査が問題となった時でもこれを批判していた郷原氏などの主張もシナリオありきが問題では無く、事実がシナリオと違った時の”撤退”判断の重要性を説いていた。)
時間の一部だけを切り離して『事象』としてひとつの理解に及ばそうとするとき(なかば映画の解釈というかテーマを考えるような話)、「それはこういうことだから」という(起承転結じゃないけれど)ひとつの理解に至るには、誰しもが「シナリオありきで考える」というプロセスを走らせているのだろうと(撤退などのダメ出しをできるのは自立独立的ポジションを持つ『自意識』だけ)、
さて「夢も希望もありゃしない」なんて言葉がありますが、
この言葉は夢や希望に繋がる「思考のネタが無い」という事です(夢や希望って”モノ”ではありませんから)。その自我がストックしているそれっぽい好感イベントのシナリオとして想定しているキッカケが無い。
本当に夢も希望も無いのでは”無く”、その思考が走らないって意味ですよ。
■たとえば『自由』の概念を考える場合、それは無軌道だとか混沌だとか無秩序を意味しません。
(フリーJAZZや創作舞踊やアナーキズムなんて〜な話から考えればさして難しくも無い話。)
音声で言えば空気抵抗であり、水泳で言えば水圧であり、歩行で言えば重力であり、なんらかの手応えのある空間なりに干渉だとか関与したり力を加えたりして←この時の動作が「自由に」と表現されたりされなかったりするって事。
観測される行為の「自由度」の事です。
まちがっても「お仕着せの幸運をあてがわれる」というような状況は自由と呼びません。
(それじゃお仕着せの概念に抗う事無く受容する事を間接的に強いられてるのと同じですから。)
つまり、苦も無く何でもできるみたいな状況には”自由度”は発生しません。
せいぜい考えらる事は(苦も無く退屈ななかで)「何でもできるのであれば、今何をして何を断念するか(聖徳太子じゃあるまいしできる事を常に同時並行で実行するとか不可能なんで)」この選択の自由が唯一の自我の仕事になる(逆に言えば同時に全てはできないという時間の限界・抵抗に対する関与だから”ギリギリここだけ労がある”となって自我の仕事しどころとなるワケだ)。
そりゃね、(不都合や抵抗や重力や水圧や時間の限界や空間の限界などに)抗(あらがう)図式の中で自由度なりを発現する働きかけ(仕事量)が実存であって、この時の選択に自己責任の担保(著作権)があるから実存証明となるのであって(注:できるようになるという意味では無い→「失敗の自由」)、専らその自由なる論議で重要なのは「自己責任の担保」の部分に干渉されたり侵害されたりする事の無いようにうんうんかんぬんって部分なワケだ。
つまり、ぶっちゃけた話「何かいい感じのキッカケになるナントカが無ければ夢も希望も無いって話ができる」なんて話は100%有り得ない。完璧な論理矛盾になる。
だとすると?
「これが僕の夢や希望だ」というシナリオってそもそもどうなってんの?と、そこを事前に(それこそ)”考える”ってな事を抜きに、現状の「夢や希望がどうしたこうした」を論じても全く意味が無いんですよ。
(地検の取り調べで何を言っても嫌疑が晴れないように)
「そもそもどういうシナリオなのか?」
この時、自由度なりがそのシナリオに観測される”何”が無いと、そのシナリオは「夢や希望どころか自らの自由の否定を同時に意味する」ってなことにもなります。
「何者かでありたい夢(或いはある筈だという思い)」と「何者かであろうとする自由」が相克関係にある場合、構造論的に「自由に夢や希望を語れない」人格となってしまいます。
↑
ここがひとつのレトリックになっていて、
「自由にそれを語る」って=「予めそれが容易に実現できない抵抗や水圧や重力が環境として存在しなければなりません」、「いやはやこの場合はこうするワケさ(こういう自由度の発現で実現しちゃうワケだ)」。
言い換えれば「予めそれが容易に実現できない抵抗や水圧や重力が環境条件として必要」なんです。
■ベタな言い方すると「戦功には戦場が必要である」。
そこから極論するならば、
「端的に自分にとって不利な状況は”機会論”的には幸運である(自由なりを発現する必要十分条件)」でなければならず、
(すっごくベタに言うと、空腹であればあるほどその食事がなんとやらって話ですよ。)
心理学的に自己だったり自我の介在や実存ってのは、
「さて、この時俺はどうすっか」という問いだったり、その場で「こうしちゃうワケなんだ」的な自由の発現が可能なシナリオの「それこそ自由度」ってものが無いと、考えるってプロセス(専ら自我の本業)が役立たずになってしまいます。
故に「夢も希望もありゃしない」なる言葉の裏書は「こうに決まっている」となります。
(BGMで「こうに決まってる」の歌がずっと聞こえているかのような)
これって郷原氏じゃありませんが、シナリオありきのダメなパターンの捜査とまったく同じです。
重要なポイントとして捜査本部がそういうスタンスだと「冤罪が乱発します」。
(この時「やれ『国策捜査』だ」などという批判も、親方日の丸じゃありませんがそういう認知に強く『共同幻想』権威主義が関与している事を証明している。)
つまり「こうに決まっている」論が成立するためには「権威主義的認知」が必須条件となる。
また、同時にですね「自由と権威は対立概念」なんですよ。
自由”度”の側から見れば、権威とは重力だとか圧力などの抵抗勢力環境なので、下世話な言い方すれば自らの自由度でナタ振り回す敵方って事ですわね、
(もちょっと上品に言えば、自由なルートで登山をする場合「王道ルートの地図」ってのは反抗すべき対象になる。)
つまり「こうでなきゃいけない」思考の場合、
「王道登坂ルート以外で登頂してもナントカ山攻略とは言えない」って事になってしまいます。
(※勿論ですが、登山の栄誉なんてのもは新しいルートの開発や無理と言われたコースからのチャレンジで評価されるものであって、定番ルートで登坂しても「いい経験しました」ではあるけれど自由度を発揮したチャンレジにはならない。)
つまり「こうでなきゃいけない」思考の場合、どこぞの管理職が意欲的チャレンジする部下を頭ごなしに否定するかのように「自分が自由度を発揮しそうな行為」は許されざる暴挙となるので、まかりならぬ行為になります。
自我が実存する主体的自由度ってものを頭から否定しているワケで、
そこに「夢や希望があるワケが無い」んですな。
(ここホントの話ですが「本当にそうなったら」の推定をした時、それは案外後味の悪い不快なものである場合すらあるんじゃないでしょうか。)
昨今あまり聞かなくなった言葉である「夢も希望もありゃしない」ですが、この言葉が頻繁に使われていた昭和なんて時代は確かに『戦後インチキ共同幻想』もバリバリで、それは「絵に描いたような幸福の押し売り」的な時代でもありました。
所得倍増論のような「お上が幸福を定義したり宣言したりしていた時代」の話です。
(社会学的観察としてはこの時期そのアンチテーゼとして『脱サラブーム』が登場するワケさ。当時の脱サラなんてのは高度経済成長という『共同幻想』権威そのものに対する反抗ですよ。まさか市井のサラリーマンがこぞってラーメン屋になりたかったのだなんて思えませんからww)
■『被(こうむる)』などという現象はですね、
「こうにきまっているBGM」に囚われているような話であって(極論『洗脳』)、
そこで自己防衛なんかで興奮しようもんならさ(まさに前述の「どこぞの管理職が意欲的チャレンジする部下を頭ごなしに否定するかのような話」なんだわ)、現象としては頭の固い旧世代の保守反動仕出かしているのと同じになってしまう。
※同じ保守でも確信犯の真性保守ならまだいいけどさ、そうじゃないものだから前項記載のとおり「それが本当になってしまうと実は後味の悪い不快しかのこらない」可能性だって大きい。←いかにナンセンスかって事です。
プラトンじゃないけれど、
「そんな自分の権威主義やら既成概念という圧力や強迫心理などに「なんか変だぞ自分」「何か違うくないか自分」と『抗(あらがう)』って事ができなきゃ『自我の仕事にならん』のであって(自由度が観測できない事になるからね)、自我が仕事できなきゃそれは機能不全なんだから」=『思考停止』なのさ。事実上考える自由を放棄してんだから。
■ネタバレすっと「夢も希望もありゃしない」なんて現象そのものが本来”あり得ない”のであります。
「何か変だぞどこか違ってないか?」
キッカケは自分で振ればいいのだから。
ここまで”考えた”ところで、あれかもですね『保守』って概念をもう少し深く考えておく必要ありそうですな。存外にそこはアイデェンティティー論や歩留り論にも被ってきますから。
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