2014年07月03日「集団的自衛権の行使容認」というわかり難い文章
http://kagewari.seesaa.net/article/400950154.html
同記事コメント欄に記事と関係の無い「削除を前提とする投稿」が連続した件
返信元コメントは投稿者希望で削除を前提としており、記事と関係の無い書込みであったため削除し、返信だけを(心理学的説明となっていたので閲覧可能なように)表示させていましたが、引き続き「私の返信に対する削除(と別途転載)依頼」が連続する状態に至ったため、経緯説明だけを残し依頼のあった部分のコメントを全て削除しています。
■私の返信部分は前述のとおり「心理学的説明」となっていましたから同箇所のみ(心理学テキストの記事となり得る水準ですから)編集し別途記事として以下にまとめます。
私のコメントは「関係障害」などにおける『共同幻想』社会などの場面における誤解発生プロセスの説明です。
↓(今回のまとめに応じ再編集されています)
「(聞く側から言えば会話構造として)普段から別途論議になっている話しの言い訳」になってちゃっているという話です。
(勿論言い訳などする意図は無くやり取りの中で会話構造としてそうなってしまうという話)
ポイントは主語にあります。
『共同幻想』社会における”なにげない会話”において期待されている返事が
「なるほど、あなたはなになにですね」となる状況で、
(そこの表現に何らかの強迫フラグが偶然含まれておりこれに無意識に『被(こうむる)』形のリアクションが発生し)
「私は何々なのに、あなたな何々だ」となってしまうと文章の意味は大きく変化します。
主語として「あなたは」が期待されているところで、「私は」で始まる返しをしてしまうケースです。
この状況は『共同幻想』社会にとって、発言趣旨が180度級逆さまになるほどに誤解を招くケースがあり得るんです。
言うならば、あたかも「極めて最初の発言に対して(自分の事では無く相手の発言に対して)批判的意図がある」かのように解釈される場合がある。
■特に、予定調和を意図した『共同幻想』同士の会話が前提の時には、そのやりとりは『連歌』や『輪唱』や『ユニゾン』のような流れが主な目的だったりするため(田植えの時に全員で民謡を調子よくうたう場面そ想定してみてください)、「実のところ最初の話を振った当事者も事さら何か言いたいことは無く、会話の目的そのものが”ハイ次の人”」的なケースは存外に多いのです。
「だよね〜」「そうですね〜」があたかもグルーブ感伴って、、のような想定が織り込まれる。
「いつもお世話になっております、つまらまいものですが。」このシーンで自分に向けて個人的に意見を求められていると感じる人はいない。→まさかその場面で「わたしは何々ですから」のような返答が続いたとした場合の違和感で想像してもらえればわかりやすいかと。
(これは民謡などの「あーちょいな」「それからどうしたっちょいな」みたいな掛け声の期待値とほんとんど同じ)
基本的に会話の目的が(意見交換目的では無く「会話の目的そのものが『予定調和』の継続感」など)追従的内容(総論賛成・広義で肯定)であることが前提となっていて(米国英語で言えばyou know連発状況)、極論するとそこで唐突に個人的意見が含まれた切り替えしをする事は”別の意味”でタブーだったりします。
↓
つまり『共同幻想』予定調和場面で、主語が「私は」から始まる返しをすれば「もうその段階で場面全体に対して重大な批判性のある返しの形式」になってしまう場合があるワケです。
(何故にこの場面で、個人的意見の披瀝になってちゃうの的な←誰もそんなネタ振りしていないよ的に。)
しかもその返信には「強迫心理ワードのフラグ」に反応したものですから、文章的にも反射的に反論調の語尾がくっついたりします。
勿論この発言は「ネタ振りされた話に対する返事」であるため(自分から目的をもって発言したものでは無い)、返事をした当人が詳しい発言経緯を覚えていない場合も珍しくありません。
それは「いきなり反論なの?」だとか「ここで何々の件の言い訳始めるとかどういう趣旨?」などの誤解を波及させます。
■ある意味『共同幻想』社会の会話には暗黙のルールがあったり、「共同化」「共有化」「共同体感」などを運営する目的の場合が大半で(ある意味個人的意見の吐露はオフレコ扱い)、この時必ずしも『共同幻想』適応意図の無い個人が「なんの話ですか」と関係すると、有り得ない誤解を招く場合も少なくないので(留学生との会話のように別世界の『共同幻想』適応者とのすれ違いや誤解連鎖も同じ仕組み)、「ムラ社会的しきたり」のようなめんどくさい状況が多々あるのは事実で、『共同幻想』適応者間でもなにげにそれはストレス認知されていたりします(たとえば『公園デビュー』の緊張)。
『共同幻想』で言うところの「習うより慣れろ」なんて言葉もこの辺の状況表すものだったりするのでしょう。
注:『共同幻想』の代表格である「体育会系」などでは”その社会特有の言い回しや口調”が頻繁にみられるのも同じ仕組みです(「ちょ〜ス」だとか「返事は異様に大きな声でですます調」などなど)。
結果として、発言内容以上に『共同幻想』社会の会話ルールとの齟齬が影響して、相手に「思わぬ強い反論表現(或いはネタフリ当事者に対する強い批判だとか侮蔑)」として理解される事があるんです。
■だから殊更どうしたって事では無いのですが、
仮に「適応強迫」で内心望まぬ関係性からその状況が発生しているだとか、
依存性から結果的に「適応強迫状態」にある場合など、
同様の誤解連鎖は「半ば最初から織り込まれいる」事になる。
(関係障害ってのは半分『共同幻想』社会の特徴が相対的原因にもなっているという意味です。)
と言いつつも、
■彼らの反応には「自分の潜在意識下の強迫心理の何のフラグが反応したのか?」を再確認できる情報も含まれるので、殊更に関係悪化した側面ばかりを見るのでは無く事実認定として「あれれ?何がどうしてこうなった」を考えるに足る部分はあります。
(勿論一方的に自分が”いい悪い論”的に自己嫌悪ネタ化するのは”好ましく無い”)
基本的には「やれやれなんだか面倒な事になったぞ」なのですから。
(更にやれどう言われた、こう言われたなどの『被(こうむる)』ベースの認知が宴たけなわになるのは「あり得ないほどナンセンスなこと」です。)
更に付け加えると、
■『公開掲示板』などのログでお馴染みの『知人の話禁止』というのがありますが、
この『知人の話ネタ』というのが、前述までの誤解連鎖を利用する方で(むしろ強迫心理が率先して)それを引用した話を展開するケースもあります。
(構造的に「非常に高い確率で鬱ネタを確保できる」)
「知人の話ネタ」に強迫的思考にキャッチ―な話があれば(それみたことかやっぱりだ的に)それは唐突に『確定的事実』であるかのように認知され、何故かそういう時には「リテラシー効かせてそれって本当に有力なナントカか?」などの事実検証がすっ飛び(普段は「何故ですか」「わかりません」などどちらか言えば新事実に対して不安からくる猜疑心が目立つほどなのに)、強迫的思考の期待する方向にベクトルつけて認識が過剰化する場合もあるワケです。
極論すると、これって依存的に「適応強迫」が発生する裏コードである場合もあり(無意識に関係悪化する関係性が既成事実化されているなど←このイメージが「強迫心理」により追体験に再現されている”いつか見た心象風景”)、
「あーあれれ、何々が出ちゃったかこれ」とかのダメ出しネタの情報収集として考える場合、そこには様々な背景があるって事です。
↑
(※上記における条件反射的な「それみたことかやっぱりだ」という部分は構造的に『共同幻想』社会の会話における予定調和と似ており、民謡調で言えば「それみたことか〜やっぱりねっ」のような韻を踏んでおり、「強迫心理は」同じ心理構造によって「自意識の発言を抑制している」「強迫心理に対して予定調和しか認めていない」というような状況が発生していると考える事もできるでしょう。)
■その意味で『公開掲示板』などのログでお馴染みの『一拍置いて考える』
この意味や意図はとても重要だし効果的なことなんです。
事実上「リテラシーすっ飛ばし型」条件反射認知を抑制・修正するわかりやすい手法であり、
仮に脊髄反射的な認知で「わかった事」にして放置されそれが習慣化すれば、
「わかるまで考える」というプロセスが自我に導入されないままになってしまうだけでなく、『一拍置いて考える』という行為が(ジャーナリストの心得じゃないですが)事実認知の論理回路として”まんま”抜け落ちてしまう事にもなりかねない。
『一拍置いて考えているだろうか(=即レス禁止)』この確認は大変重要な訳です。
■特に関係障害局面において”いい悪い論”が展開されるのは好ましく無く(もろに「鬱ネタ」ですから)、そもそも”いい悪い論”ってのは『共同幻想』社会の専売特許で「所謂共有化された雛形」に過ぎません。
(それもどちらか言えば『共同幻想』導入過程である小学校などにおける話です。『共同幻想』社会にも本音とタテマエはあるのであって、勿論その本音ってのは”いい悪い論”で割り切れない話を意図したものです。)
関係障害がらみで”いい悪い論”がバリバリ展開するのは反抗期不全で現実アップデートが行われていない「強迫心理が意図したもの」以外の何物でもありません。
忘れちゃいけないのは、
■『共同幻想』崩壊過程における『単独者化』が志向されている現代社会の場合(非婚・晩婚・おひとりさま・ノマド)、わざわざ『共同幻想』社会的関係性を志向する必要性は無く、「めんどくさい関係性から疎遠でありたい」という認識はかなり拡大してます(社員旅行や飲み会などの”付き合い”の忌避などもそうでしょう)。
その状況で「適応強迫」状態が発生する事自体からして問題視しなくちゃいけないところなんですから。
「疑いも無く収穫の時民謡を歌う集落」が→「民謡を芸能として愛聴する社会」となり→「古典芸能保存会運動に民謡も含まれる」となって→「一部音楽趣味性の高い人が民謡文化を掘り下げる」←こんな感じの推移となるのは文明化の流れの中で自然な事で、
勢い、何ら民謡と親和性の無い個人が(何らかの適応強迫で)「民謡の会」に参加して、会のルーチンワークの民謡歌唱時にやおら「は〜ぁそれからどうしたっ♪て何でしょうか。私にはわかりません、それからどうしただころじゃないんです。」←こうなってしまうような『場面上の乖離』って一拍置いて第三者的に考えれば「関係悪化とか関係障害以前に、その関係性の志向や選択からしておかしくないか?」って問題の核心がバックグラウンドにある事からネタバレ可能なんです。
(鬱事例などにおける「とにかく休職しましょう、可能であれば退社するのベター」というのもそういう悪循環化からひとまず安全圏に退避する目的あっての話です。)
『共同幻想』社会の会話というのはデフォルトで予定調和が大前提であり(フォーマル)、個人的意見交換がその趣旨になる方が異例なんですから(つまり「適応強迫」は関係障害以上の大問題なんですよ)。←お祭りなどで「共通の衣装(原型はユニフォーム)」などを着るのもそういう趣旨です(没個性化する事で構造論的に総論賛成の調和を”公式な形式”とする)。
■「何故そんな思いもしない不思議な事が起きちゃうのか」仕組みがわかれば、
「どっから考えてもこりゃ論理矛盾があるのじゃないか?」となり、←ここに気が付けば、
自立的に「馬鹿か俺」技を使うポイントがわかるようになってきます。
(「馬鹿か俺」ってのは”強迫心理切り”の自意識ワード)
いい悪い論などで宴たけなわになるってのは、上記のような『一拍置いて』省みる状況を感情的興奮により阻害するための(強迫心理の)防衛的反応と言う事もできるので、「”いい悪い論”がナンセンス」である事も基本中の基本です。
ここまで
(流石に返信部分だけだとまだわかり難いところあったので7/19・22と更に一部加筆・再編集しています)
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