その技能が芸術を超えている『職人』は『共同幻想』適応人格である。
『芸術家』と『職人』の違いは、
前者が「破壊と創造」がその特性であるのに対して後者は「性格な再現と忠実な保守を善」とする職責を誇る。
平たく言えば前者は『抗(あらがう)』形式で現実に反抗しており、
後者は伝統や歴史というものを権威として認め自らもその一部を構成する帰属(アイデェンティファイ)そのものを善や徳のような道徳性として”自ら選択”する。←端的に言えば『共同幻想』に対するアイデェンティファイがアイデェンティティーになる。
後者を補足すると、欧米の場合一神教的ビヘイビアがあるためそアイデェンティファイは更に上部構造の教会権威に(神と1対1的に)帰属するため、世俗や仕事上の帰属は一段下になるので見掛け上個人主義が成立しているように見えるんだが、あくまでこれは帰属構造上の特徴であって内容は同じだ。
※更に補足すれば「欧米における『共同幻想』適応を日本的に解釈すれば」その神の概念は親子関係に被っている訳だから、欧米の『共同幻想』適応人格は社会心理的に言えば日本よりエディプス的であると見ても間違いでは無い。
↑↓
日本が仕事優先で「親の死に目に会えない」事をある種の『共同幻想』的美徳としていたり、サラリーマンにおいてあっさり単身赴任を受諾する事を社会責任として正しいと判断する点なんかは欧米的には考えらえない事だし(彼らの「日曜日に家族で」の元ネタは「安息日は家父長(下士官)が引率し家族で教会へ」である)、あたかも日本人は組織論や集団への過度に従属的だなどと欧米から見当違いの批判をされる事も珍しくないが、彼らの帰属性は二重構造になっている。
彼らの自我に認識されている内容(家族を仕事や会社より重視)とは別にその深層心理には教会権威のフラグが後ろ盾になっており”見掛け上”各自我が仕事や会社組織に堂々と対峙しているように見えるだけで宗教的観念にはその反対に従順だったり、或いはその反対で「反動形成」込みでエキセントリックな反発を持っていたりする。
(※日本はその反面、岸田教授的に言えば「帰属組織にそのまま神様じゃなく『世間様』がそのまま被っているだけ」で、『共同幻想』適応の構図が欧米から見れば「日本人は緩い戒律の多元的宗教の聖職者」のような”二重”では無く”多重”構造になっているだけ。)
話は戻るけれども、
日本で言えば『職人』は家族であるとか自らの人生すら帰属する共同幻想権威の下部構造に過ぎないので、「仕事に殉ずる」的な振る舞いをその道徳として自我を拘束する道を”自ら”選択するのだが、
結果的にそれは「反芸術」的振る舞いでもある。
「冗談じゃねーよ、大工何年やってんだ○○ってものはな〜こうしてこうしてこうやんだよ」
(前回の話における「普通○○はこうだろう」文法と同じ)
あたかもその技法や伝統の継承は欧米で言えば宗教的戒律も同様って事になる。
(日本の『共同幻想』は”多重”構造で「緩くてなんでもあり宗教の聖職者」みたいな帰属の仕方をするから。←欧米人に比べて日本人がおとなしいだとか極端にマナーがいいとか言われる人格構造の理由。)
■ご存じのとおり上記の典型的『共同幻想』適応モデルの全盛期は昭和であり、平成以降その根底はガタガタと揺らいでいる。
「グローバル時代の『共同幻想』」←こんなもん成立する筈がないからね。
仕事が命の職人に「育児休暇取って家帰れ」とかねww
言葉として論理矛盾してしまうわけだから。
簡単に考えれば『芸術家』はその反対みたいなものなので、
『職人』から見れば天敵とまで言わないが「一歩間違えれば「異教徒」そのもの」である。
(※これ建築なんかにおける前衛建築家意匠デザイナーと職人さんの対立関係で想像するとわかりやすい。)
■しかし『単独者』=芸術家では無い。
基本的に『単独者』単体の特性は”組織って何?的感覚の自由人”みたいな概念なので(まーそのまんまリベラル主義者というか)、『共同幻想』特有の思考リミッター(『共同幻想』固有の『自意識抑圧』)が無いので、お笑い的なアイデアだとか馬鹿馬鹿しいことなど『共同幻想』から見れば破綻にも見える現実を知覚・認識する特徴はあるが、芸術的な表現を求めるモチベーションなんてものには関係が無い。
では同じ『単独者』から芸術家はどうして派生するのか?
心理学的に言えば芸術家は「歩留り的選択者」と言えるもので、『共同幻想』系メンタル問題でたとえるなら、たとえばだけれど「鬱的傾向」の一部を自らの個性として受容する事を歩留り的に選択する状況なんかと似ている。
(この歩留り選択ってのは『自意識マター』による自立的選択なので選択そのものに対する強迫性が無いので「鬱も俺の個性」として何ら問題が無いというか、本人がそれでいいのであれば無意識下で悪循環化するようなことは無い。←哲学的には性悪説的選択とでも言えばいいか。→「偽を知る偽者は中途半端な本物気取りよりよっぽど本物だ」)
■『歩留り的な単独者』って何?って話になると思うのだけれど、
芸術ってのは当人が”美”だとか”芸術”だとかまー所謂そういう神聖なナントカを個人の自我を超える上位概念として認めるとこないと始まらないんで、この段階で歩留り的なんだわね(上位概念を持っているんだから)。
そして芸術家の道を選んだとこから「構造的イバラの道」を歩む事になる。
↑
えーとね最初にネタバレしてしまうけれど、
これが『昇華』って現象。
職人のところで記載した「聖職者的『伝統保守』意識」とかも『昇華』。
(所謂確信犯的選択における『共同幻想』の”選択”のとこに合理主義を超える”歩留り的”な上位概念を置くとこうなる。だから「天職」なんて言語になるワケ。)
わかり難いでしょうかね、
『単独者』の歩留りは「共同幻想的な上位概念」だし、
『共同幻想』の歩留りは「単独者的な権威の勝手な自己選択」となるから。
■逆さまに言うと(こっから更に難解な話になるので悪しからず)
『個性的』特に「尖った個性」なんてーものは、現実との乖離ぐらい飲み込むような部分あるからそう見えるんで、『自意識選択』により「これは個性だろう」だとか「これだ、これでいいんだ」みたいな感じに(この辺の認知はほとんど各個人の偶然なので説明しようが無い)、自我が強迫的認知(現実との乖離)を自分の個性だと歩留り的に選択した時、「尖った個性」なんてーな印象は最大化する。
強迫性を終生織り込んじゃうのだから、
職人的なものなら「まさに殉教者のような」
芸術家的なものなら「ありもしない理想への盲信と追及のような」
「構造的イバラの道」を歩む事になるんですが、
どうしたって極端な人生になる認知を『自意識選択』により好きで選んでいる事なので、メンタル問題的な悪循環化傾向は無く、
↑↓
もうわかりますよね。
「(強迫的な)現実との乖離」を命掛けて「(その道で)手段を選ばすに実現したろう」ってことだから、
『歩留り選択』っつーのは=「無意識下の強迫心理」をそのまんま個性として『自意識にサルベージ』するような行為で、即ち「元ネタは現実との乖離(ぶっちゃけ妄想)」なんだから、実ネタでこれに挑戦するって行為は(エベレスト登頂なみに)「何で好き好んでそんなイバラの道ってか、そこにいかほどの意味があるのかさっぱりわからない」ぐらいトンデモな人生を事前に約束(契約)する格好になる。
職人気質的『共同幻想』の場合は迷いが無いというか、特別にフラグを付けた職業なりを非常識なぐらい追求するスタンスだから、同じイバラの道でもまだマシだけれども、
▲「芸術家」は特に大変なんだわ。
(ここスポーツなんかも同じね、)
「脳内の誇大妄想を表現するんだから」
しかもその表現形式なるものに”コード”というか枠とか枷の中に表現しないといかんわけで(音楽や絵画や文学や舞踊などなど)、「本来最初から絶望的に無理な事だから(笑」
限りなく「誇大を偉大に変換する作業」っつー絶望的に無理な事にチャレンジする無謀な人達が芸術家って事になる。
(※勿論商業主義的成功なんてものは「職人肌における殉教者の世俗主義」みたいな論理矛盾となるので、「商売で芸術家をやってる」的な話になってしまう。)
↑
だから芸術家の表現形式なるものは社会的に選択された(ぶっちゃけスポンサー付きとか援助込みの)特定ジャンル以外は「食えなくて当たり前」って事になる。
国が予算を組むか(典型例がコンサートホールなどの箱物インフラ)、中世ヨーロッパのように貴族がパトロンになるとかして守られてきた「限定的世界」に違いは無い。
■「芸術家やプロスポーツ選手」なんてーものは一見無駄な・無茶な・無謀な存在にも見えちゃうんだけれども、
人類がなんだかんだとこの世界を諦めないって背景を考えると、
文明化の選択により人間は自然淘汰圧力に関する進化の可能性をストップさせたとこがありますが、
オリンピックやらのナントカに見られるようにですね、
全ての人類に普遍の歩留り反動ってのかな〜
「妄想レベルへ限界越しのドラマ」を潜在的に需要しておりまして、
何万分の1か何十万分の1か知らないけれども「無数のイバラの道」の先にですね、実際時々トンデモが発生するワケですよ(そりゃそうでしょう母数やらインフラ投資額などの環境が常識外れなんだから)。
クラッシックの音楽家でもロックバンドでも絵画の世界でも野球だのNBAだのサッカーでもF1レースでも舞踊家でもですね、一流どころは「もう人間離れした神業」なんであって、
『歩留り反動の妄想すら超える偉業』とか本当にやっちゃうワケです。
重要なポイントは仏教哲学的にさマジ『単独者開眼』なんてしていれば、
そんなアホみたいな事に人は頑張らないのであります(笑
たとえそれが「強迫心理」だろうがなんだろうがだね、「そこに山があるからとエベレスト目指す奴もいる」わけでして、
(この場合「強迫心理」ではなく確信犯的選択における個性だから。)
ほとほと心理学は哲学でもなければ人生相談でも無いというね、
あくまでも「世に起きているコードを解析してなんでかな」を知るためのツールであって、
実際「如何にあるべきか」なんてフェーズに至ると、
本人その覚悟があれば「強迫心理上等、俺の個性だ、100M9秒台?俺にワケネーだろ」みたいなのも数十万に1の確立だと「あり得ちゃう」んだよね(笑
それをさ、心理学が「病気だな」とか言ってちゃしょーがないのでありまして(そもそも心理学は病気だなどと言ってないのでこれ皮肉ね)、
「○○でどうにも困っていて、これを解決したい」って場面に「確かに構造的問題あれば」構造的分野に関しては出番もあるが(そもそも世界の『共同幻想』破壊して回るとかそういう趣旨全然無いし)、本人が行くのであれば、止めるどころかですね「あんたは芸術家だ」となるのですよ。
(おーもーそれは昇華ですねと、)
心理学がジャーナリスティック且つ、単独者的視点で何か言うとすると、
「十万分の9万9千、限りなく100%が失敗に終わる挑戦ですね。まさにそれこそがシューシュポスの神話であり『反抗的に生きる』って奴ですか」になる。
つまり『抗(あらがう)』にも微妙に”歩留り”は関係しており、
個性にも”歩留り”は関係し、
仏教哲学言うところの悟り(強迫心理=煩悩の消滅)は心理学的には「あり得ない仮説」であり、
「強迫心理」の完全な消滅なんてことがあると、そこで主体性はどうなんの?とも言えるのであり(有り得ないのでその状態を想定する意味が無い)、
そもそも自我は『ノリつっこみパッチ』で無意識にゴロゴロある「強迫心理」をその都度鎮圧なり・確信犯的にのみこんだり・いなしたり・説得したり・説諭したり・闘争したり、その時その時で対応しているのでありまして、
恐らく実存主義哲学な人は「抗いつづけてナンボ」だから「反抗的に生きる事こそ実存である」つー結論になるんでしょう。
(それも又極論の仮説だけどさ、)
■バレバレの話で言えば
フロイド心理学系列の派生哲学だとかも盛んだった60年代あたりに、
本気でかの有名なビートルズのみなさんも「マリファナやって『自意識』昏睡させるとマジ無意識見えるかな」みたいなバカみたいな着想本気で信じちゃったりとかですね(笑
実際のところはそこに確信犯的選択さえあれば「何でもアリ」なのが人類なんであります。
だから『共同幻想』なんかだと戦争とかもできちゃうって言えば余裕でできちゃうんだな。
(エディプスの元ネタなんざ近親相姦と親殺しなんだから、人の無意識に何があるってもーねまんま見えた多大変なんであって、)
『単独者』なんかだと法律や道徳や倫理も基本クソくらえですからね。、、、おっとっと言葉が過ぎました。ほーりつは守りましょうね。繰り返します法律は守ってください。日本は法治国家であり社会契約説的に私達は法治国家を民主的に選択・契約した市民ですから、えーー社会学的考察をすっ飛ばさないように。
えー話を戻して、
心理学における「どうでもよくないことなどこの世に無い原則」と「何でもアリ」なのが人類なんでありますってとこは被ってんだよね。
合理性ってのはシステム設計上のルールであって目的では無いから。
割り切れたら大変なんですよ。
(だから多分、理系の力動論には無理があって、力動論やるなら経済学使うのがベターなんでしょう。)
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