前回を引き継いで、現代社会における自我の実存の”認知”を考えとる訳です。
ここが認知できないと自我は『主体の無いシミュレーション』のような代物になってしまいます。
(そこで主体性やら自立性やらあり得ないわけで、構造的に自我は何らかの”権威”なりに従属でもしないと存在の確認すらできなくなるっちゅう訳です。)
若干「主語の無い言葉」だとかにも被るかなと思います。
前回の話でそもそも人間に限らず生物ってものが認知しているのは「そのままのリアル」ではなく、脳内に展開されたバーチャルな現実である事を説明してきましたが、
時代的に岸田教授登場云々の頃にはそのバーチャルなものを統合する仮想権威として『共同幻想』が云々され(動物で言えばここが普遍的本能のような行動原理により統合されている)、そこんところの社会性は時代の変遷で『単独者』的な概念に置き換わり、現代社会では『共同幻想』の実態が過半数を割り込む実情やら(この時点で『共同幻想』の権威性プルーフの多数決上位構造は自戒してしまう)説明してきたろころです。
簡単に言えば『予め舞台設定された状況における自分の配役』のような認知で自我の存在を認知する『共同幻想』特有の社会的基盤は予めおり込み済みの先進国化の中で弱体化・脆弱化するワケで。
(ちなみにネットにおけるSNSはそこに派生したスキマ産業のようなものになる。)
うんで、
『単独者』的な実存がどういう事になって『リアリズム』として自我の統合なり主体論なりを構成するんかということだけれど、
「ニワトリか卵か」のような話でもある。
■単独者が実存を体現するとも言えるし、その構造は『抗(あらがう)』形でのリアリズムの追求なので自動的にそれは『単独者』の事だとも言える。
そこんところのバックグラウンドが『近代・共同幻想』が「ようやく文盲率が下がった」あたりで本格化するのに比べて、先進国下・高福祉下における核家族(或いは結婚によらない出生率が5割越えによる母子家庭を基本とする”もっと核世帯”)と高学歴化により『リベラル系後期先進国・単独者』の図式は殊更大きな変化という事でもない。
(勿論『近代・共同幻想』時代から『単独者』はいたわけだけど、これは偶発的環境も込みで発生していたと見てもいい。「そういう自我の才能」みたいなものは概念としてナンセンス←理由は考えるまでも無い話で、群れを形成する生物は「好きでやっているのでは無く」捕食生物などに対する安全保障としてであって、アダムにも似た”ペット化環境”などで証明されているように環境が許せばあらゆる生物は単独行動化するもんだと考えても大きく間違いでは無い。)
そしてー心理学的な見方なんだが、
『反抗期』でこいつを検証するとだ、
幼児期幻想ってのは自らの発育やらで台頭する「個人的快感獲得能力(てか本当は人間が妙な進化していなければ生まれた冒頭から持っていてもいい能力が)」”人類普遍の不具者”の立場から遅ればせながら機能回復するためで、その交換性(誇大とも言えるイメージに対しても経済学的に交換価値があるように認知され)により”幻滅”過程に以降する。
(注:この成長により獲得される能動性なり個人的快感獲得能力なるものは、実現だとか体現されている必要性は無い。「ひとりで好き勝手に歩けるようになった」に起因する”可能性”は”未知”であるため仮想無限大なのでこいつが”誇大性”とタイマン勝負できる鍵となる。又、仮に当事者が巷で言うところの「どんくさい特性」なんてものの持主であっても、想像するのは誰しも自由なのであり(ここ言うならば「アウシュビッツでも人の夢を縛れない現象」のように)仮に独房に投獄される人生であっても標準的に起こりうる現象になる。←これを潰す方法は強迫心理なりのレトリックの中で結果”自分から過去の世界”に引きこもった場合、或いは強迫心理的”設定”を強行に保守する場合。)
■さてここの説明で、心理学的解説つけると、
幼児期の誇大性が(何の演出効果なのかは個別に違うので類型化できない)何かの拍子だとか、幼児の創造性だとか、難解な親の言動で「ちょっと収拾がつかないほどの規模」である場合(まーいわゆる強迫心理元ネタ化)、経済原則として「(誇大性部分が相対デカ過ぎて)交換価値が派生せず」『反抗期』の幻滅が起きない或いは中途半端になってしまう。
(ここがメンタル問題のネタバレ)
このブログを始めた頃の社会情勢ってのは『共同幻想崩壊指標』的にですな、総務省辺りの調査が6分4分か5分5分だったので、『共同幻想』は崩壊過程であり(それが自明なのはわかっているのだが)今後えらいことになる的なコメントに寸止めされていたんだが、07年民主党への政権交代が起きたあたりから更に状況は進み、最近は遠慮なく『単独者化への時代へ転換している』と説明している。
かといって、
メンタル問題の出口が100%『単独者選択』となるのではない。
前回の『共同幻想の現状論』で書いたとおりで「確信犯的『共同幻想』保守選択」というジャンルも消える事は無い(文明の連続性が何らかのSFチックな現象で断絶すれば別かもだが)、理由は簡単で「権威性価値体系」なるものを成立させることができる”限り無く普遍的ファンダメンタル”は事実上(当時国家が後期先進国を続けているのであればを条件に)”不滅”だからだ。=「伝統文化」。
現行母数の集団多数決による『共同幻想』では無くって、自己選択される『様式的共同幻想』の方ね。
これまで「確信犯的(再選択型)『共同幻想』保守系」なるモデルもそのまんま『共同幻想』で説明してきたんだが、これ本当は別の言語表現にした方がわかりやすいのかもしんない。
(まーそれはともかくどうでもいいっちゃどうでもいいことなのでなんだか特殊な呼称を考えようってつもりは全くないんだが。)
■『単独者』そのものは説明できない件
『共同幻想』はなにげに社会学みたいな流れでつらつら説明できるんだが、『単独者』ってものの”各論”をあーだこーだと論じることは構造的にできない。
(説明できるのは「そんなわけで『共同幻想』に対してアンチテーゼになっている」てな後日談みたいなところに限られる。)
「個性とは何?」の問いみたいなもんだわね、
「誰の」が特定されないと答えは「バラバラの状態」みたいな事になるから、各論に関しては説明になんネーっつか説明する事自体に意味が無い(「いろんな人がそりゃいるでしょう」で終わり)。
ギリギリ説明するならば「好き勝手にしている様」とかになる。
なものだから、実存主義哲学なんぞにおいての説明が「反抗する様」までになるんだな、
(※ここ毛沢東の『造反有理』と全然違うのでトンデモの勘違いしないように、←アンチテーゼを語る手法的には被っているのかもだが、)
そして心理学的に言えば、この実存主義哲学の「反抗」ってのが『反抗期の様』から考えれば、
「”幻滅”が発生する自我の経済状況」って話になり、
確かに『反抗期』ってでっかい現実アップデートの時には荒れもしたり激しいものだったりするんだが(なんての経済で言えばデフォルトとか)、この姿は「既視感的現実に対する個人的発見の認知」局面で永遠に継続するワケよ、
↑
生きているんだからさ、生存証明じゃないが、今見ているつーか認知されている”何”は誰とも互換性の無い”新ナントカ”なんだわ(言語化の過程でそれを「自分なりにこうだ」みたいな思考だとか考察になるんだけれど←おひれはひれと説明しないといけない熟語とでも言えばいいか)、
えーこれが『リアリズム』っちゅうワケだ。
(体感されている状況が”リアリティー”)
■だから既視感的世界観で語られるなんとやらに対しての認知は「なんか(『共同幻想』的な)話聞いてもリアリティーが無いな〜」とかの返しになる。
或いは「どこの世界の何の話をしているのかピンとこない」だとか、
(この時既に当事者は『単独者系自我』の様相になっていることになる。)
つまり『単独者』は配役のハマリ度でリアリティーを感じているのではなく(=アイデンティティー感でもいいかな)、行動原理が『リアリズム』なので共同幻想などの権威性認知でそれをプルーフする必要性が無い自我構造になる。
(だから『単独者』の場合『自意識』を”外から”拘束するような権威的認知こそがリアリズムにとって邪魔なものになるので(心理学的に言えば刷り込みで導入される超自我)、スタンスは『アンチ共同幻想』であり勿論『アンチ強迫心理』となる。=『抗(あらがう)者』。)
岸田教授の時代の解説だと、
「それを説明しても共同化図れない概念は、無意識化しがちで自我統合上なんつーか」みたいな説明あるんだけれど、これは当時の社会情勢の話であって、
共同化云々と関係無く、表現の場というかだね「表す場所」があれば”現在進行形”でそれは実存”しちゃう”のだよ。
(言いっぱなしの話では無く、組織や社会という概念っつーより”外的に既存するインフラとしてのネットワークのいずれか”のような場でそれは”双方向性”を持ったまま実存するワケよ。←だからコメント欄を削除したブログには既にリテラシー性が無いとかのアレになんのさ。)
で、場所論的に「それは後期先進国の日常的インフラだ」というオチだわね。
(インターネット社会しかり、NPOやNGOだとかボランティア含む”非権威営利性ネットワーク”は後期先進国の十八番なんだから。)
↑
つまりメンタル問題的状況を継続するためには「なんらかの引きこもり状況」を作らないといけない。
強迫心理なりのレトリックの中で結果”自分から過去の世界”に引きこもった場合、或いは強迫心理的”設定”を強行に保守する場合。
(※「だーかーらー精○病○における閉鎖なんとかがナンセンスだと欧州辺りで結論鉄板化したワケよ、開放云々じゃないと意味が無いと。」)
或いは「孤立状態の自作自演的認知」とかね、
(※ここがいかにも強迫心理なのは「孤立」の概念が母集団をデフォルトとする『共同幻想』だけの話だから。)
話は戻るんだが、重要な鍵は『経済原則が働く交換性(均衡性)の成立』なんだわ。
思春期ならビッグウェーブが発生するのはもう簡単なんだが(性的能力の獲得)、
メンタル問題などでこれを後天的にというか事後的に追体験型で派生させる場合の「言えばインセンティブ」だよ。強迫心理は(そこがわかっているのか知らないが)「極力インセンティブ派生の認知を潰している」ので、そこをかち上げるというか(カウンターでもなんでも)均衡点まで持ってくのが難しい。
なんてーか本人の動機的側面だけで言えば「問題化した後日談の不快感をなんとかしたい」というインセンティブとして働くのは事実だけれど、能動的かと聞かれれば(獲得される利益は明白なんだけれど)消去法的な弱さがあるのは確かで、
”幻滅”によって過去の価値認識やら状況認識を転換させて(端的に言えば過去の認識や認知や論理構造やら権威性認知をぶち壊して全否定に回りアンチテーゼサイドに立たないと反抗構造にならんのだから)「交換として貪欲に獲得されるドロドロとしたというか生々しい個人的利益」を想定できればいんだが(前段説明のとおりこれは可能性であれば良く予定される実績である必要性は無い)、メンタル問題で貧弱化している『自意識マター』にそういう想像をガチンと叩き出す思春期的モチベーションを期待できるのかと聞かれれば「そう簡単な話では無い」のは確かだろう。
(※ちなみに言っておくけれどメンタル問題が論理構造なりをもって形になるのは思春期以降の話だから。「反抗期不全等に起因する」わけだから。思春期以前なりの個人を対象として心理学は無力なのかと聞かれれば方法論としても微妙になるだろうと思う。ベーシックに言えば「成人向き18歳未満禁止系」の学問ではある。)
でー、
難しい事言わずに「とにかく(過去の自分的なる世界に)反抗しとけば間違いない」のが論法としてはわかりやすい。
(哲学系って何言ってるんだかさっぱりの難解なのが多い中、実存主義哲学手法はなかなかいい線いっている。)
ニワトリも卵もクソも無く、「過去の自分的なる世界を追従するような話を始めるつもりならとっとと帰ってくれ」的なラインも引ける。
(注:このラインが「どうにかする気があんのかないのか」動機確認の基本になるので、自己分析なり考えてる人はわかりやすいポイントなので確認してみるといい。)
■細かい事言えばだ、
メンタル問題なりがある成人のケースになれば、思春期的ビッグウェーブは無くても知見として持っている事実関係なりは既に多数蓄積もされているので、それほどデカイ『卓袱台返し』が必要でもないので、経済原則的心配というのはあくまでも理論的なナントカで、
故に重要なのが『抗(あらがう)』と『リアリズム』なんだわな。
「過去の自分的なる世界を追従するような話」に従属でも隷属でもいんだが、これを追従するようなスタンスであれば、一見問題を問題視しているような姿勢があったとしても、深層心理の狙いは「強迫心理の理論武装」に話を覆されてる場合もあり(こうなれば現状に対して依存的目的って事になる)、そこの確認にもなる。
『抗(あらがう)』と『リアリズム』
『被(こうむる)』と『ナンセンス(そしてナルチシズムだろうね)』
以下の部分に誤解も出ると思うので補足しておくけれど、
●端的に言えば過去の認識や認知や論理構造やら権威性認知をぶち壊して全否定に回りアンチテーゼサイドに立たないと反抗構造にならない。
↑
自己に対する全否定では無いから。
(てか全然違う、)
自分の考えでは無く(その道徳なり判断を一から十まで自分で発明したってのなら別だが)、
全否定されるのは「こういうものだ、こうにきまっている、こうでなくちゃいけない」のような外から入り『自意識』を権威的に(上から目線で)拘束している「話の前提だとか、判断基準」の事で、
こいつは根本的に自己なるものと「全く関係無い話」だから。
(所詮外から入った考えで、聞きかじりというか、なんとなく鵜呑みにしているものであって、口ばっかりで実のところその概念の哲学的意味とかさっぱり知らなかったり、そもそも間違っている場合も少なく無い。つまりそれは単なる”偉そうな知識”だとか”小賢しさ”な部分に過ぎない。)
端的に言えば「小賢しい知識」だけのことで、「ローマ帝国の建国○○年」みたいな情報的知識とたいして違いも無い。。
ここも本題に照らして補足すると、
『抗(あらがう)』と『リアリズム』そして『ジャーナリズム』(新事実関係の観察・発見)
『被(こうむる)』と『ナンセンス』そして『ナルチシズム的バーチャルな世界』(全てを過去から語る・永久反復な世界)
図式として『抗(あらがう)』ってのは「全然違って〜じゃないか?」だとか「だけれど〜かもしれない」であるとか「ひょっとすると〜であるなら〜かも」のような次々発見していくというかリアルを開拓していくようなプロセスなので(ぶっちゃけ永久に続くオルタナなんだけど)、しょっぱなから「過去の追従」が派生する余地が無いのであって(オルタナだから)、同じ話が何度も反復したらもうアウツなのであって(言うならこの時点で動機が怪しい)、
後者の状態がカウンセリングの間に発生する場合、心理学というものが「あたかも強迫心理にとって都合のいい権威」のように見立てられていることになる。
(「やっぱり○○に決まっているって事だ」の結論が出るまで同じ場所を永劫回帰せんばかりに繰り返す。←心理学がそんな結論を出すことは100%無いのに。)
(■本来はここのところは超自我がどうしたエスがどうしたとか話しないといかんのかもしれないが、どうもねワザワザ特定の専門用語みたいなのを使って意味があるとも思えんので、めんどくさい話はやりません。)
ここで再び本題に戻る、
『抗(あらがう)』と『リアリズム』
前述の悪循環になっている場合、もっとも効果的方法は「待てばいい」になる。
(そもそもしょっぱなの動機「メンタル問題なりをどうにかしたいと思った」初心が状況として変化する事がないため。)
「過去事例話の反復と依存」状態になると、極論何をしても無駄なので(昭和のコントじゃあるまいしまさか頭からバケツで水かけて”いい加減にしなさい”とかできんのだから)、自己分析なんか考えている人の場合でも『まず待つ(或いは休む)』って事。
なんかめんどくさい事言っているようだが、話は至極簡単で、
「疲れたら休めばいい」次元の話だから。
↑↓
ここに偶然というか必然というか心理学的に『一拍置くの構造』が成立するので(「強迫心理は所詮無意識下にあるので長時間その力を継続できない。これを継続させるためには新たなネタ投下を続けなければならない。」←ついでに言っておくと心理学の知見の無い取り巻きなんかがいて(これがスカウティング的に友人化してたり)このネタ投下の協力者になってたりするとたち悪いんだが、殊更そういう関係者がいない限り「強迫心理」は規定時間オーバーで力を失い後に『自意識マター』が再起動する)、そっちの側面から考えても好ましい。
※だから鬱症例なんかの場合だと、○○病院系ですら「休養なり休職なりできれば退職も」勧めるんであって。(状況の継続が”終わりの無いネタ投下”になりかねないため、)
ちょこっと話をフロイドレベルまでさかのぼると、
「自由連想により解き明かされる強迫心理の図式」なんて話になるのであれば、
これの対抗軸は、「あらゆる予断・余談無く、権威性決まり事を無視し、新規に一から認知される現実」となる。
(前段は「強迫心理」を分析し内容を掌握するプロセスであり、後段が『抗(あらがう)構造』により強迫心理の解体(幻滅)とリアリズムアップデートが続く『自意識』回復過程となる。)
■重要なところを補足すると、
『ジャーナリズム』により発掘される事実は、以前「強迫心理構造」なりに抑圧されていた自分の本音なり”自意識関連”という事になるから、この発見は抑圧されていた本当の自分のサルベージであって(本当の自分ってのは”抑圧の無い状態の自我”を指す)、全否定どころか「本当の自分に対する”全肯定”」なんであって、
まーね言葉は難しいもんで、
「過去の認識や認知や論理構造やら権威性認知をぶち壊して全否定」つーと自己の全否定かと思う人も多数でね、
「自己を抑圧する「強迫心理」の全否定=自己の全肯定」って意味が、だ(メンタル問題渦中の当事者はなんつっても「強迫心理」を権威性上位としてありがたく従属する状態が長かったりするので言うならば「昔信心していた宗教心」みたいななんとやらはあるんだよね)、これがその意味なり意図なり言葉の意味が”国語的に”理解されない場合も多数ある。
ここもね”国語的”ってところが重要で、
「心理学的説明がひとことも書いていない、180度違う話として頭に入ってしまう」だとか、
文章を書いてあるとおりに読むことができずに内容を創作して認知するとこまでいっちゃう場合も”少なく無い”のですよ。
脳内で何が起きているのかと言えば、文章の中から特定の言語を(単語検索結果表示みたいに)ハイライトして都合よく繋げ合わせて全く違う文章を構成して脳内に入れちゃうワケよ。
『構造的誤読』のような状態。
(※”宗教洗脳下にいる極端な人と市民のコント”←これをブラックジョークのコメディアンがやったらどんなシナリオ書くかとかで考えてもらえれば話が早い。)
この場合も(基本中の基本だからさ)、
最も重要かつ有効な対策は『待つ(休む)』となる。
(ある程度自分で状況わかっていれば、何も特別テクニカルな内容どこにも無いのであって、ただ休養すればいいだけ。→「強迫心理の持続時間は短い」から、興奮ブラフとかにビビってちゃいかんって事だわね。)
前回の話引き継ぐと、
今後日本では『共同幻想崩壊』により無数にメンタル問題系のナントカが想定されていて、
学問として現在の心理学はなんてーか「一般教養的地位だから(笑」、まー無力というか(知っている人はいいけれど)圧倒的に知らない人が多数と思うワケだ。
(雑誌によくあるインチキ系は盛んだけど、この辺は不動産の知識並にトンチンカンな話ばっかだし←ここは「ステルスマーケティング的な『共同幻想』の防衛」なんかもしれんわな。野村史観だとか小沢史観なんかも同じでしょうよ。『共同幻想権威社会』の既得権者はどっかで『やっかいな心理学』をいっちょあがりにしたい心理あんのかもしれない。)
心理学の現場から言わせてもらうとだね、
■『抗(あらがう)』と『リアリズム』
そしてうまくいかない時には『待つ(休む・あるいは継続中の案件なりをひとまずやめる)』
これ基本だから。
ガチでフロイド心理学が云々とかの状況は個別にあるだろうけれど(その差異は前段的に「強迫心理構造」なりの分析を事前に必要とするのか否かの差異でしかない)、今後わんさか出てくると予見されるのは『共同幻想崩壊』により”リアリティーを消失する市井の人々”って図式に思う。
(この辺の人は「強迫心理」なりの耐性もまったくなかったりするので危ないっちゃ〜危ないのです)
俺がここに書き残して意味があるのかないのかわからないが、
心理学テキスト的意味でも書いておこうと思った訳だ。
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