2012年09月07日

極端な『共同幻想協調(適応)人格』と極端な『単独者』

前回の話を引き続き進めてみよう
>例えば『共同幻想保守主義者』と『自意識マター純度100%の単独者』は同一人物ではないかという仮説です。
 ↑
呼称はまーなんでも意味がわかればいいので、どうでもいいっちゃどうでもいいことなんだが、極端な『共同幻想な人』と極端な『単独者』(双方とも実存する事は無いので仮定の話だが)この二人は同一人物と言える構造じゃないかという話。
いくつか仮定の説明が必用だろう。
実はこの話の始まりである前回エントリーの経済学が暗示しているのは環境てかビヘイビアの差なワケですよ。
そういう意味では心理学、とりわけ社会心理との関係や『共同幻想崩壊過程』と『文明化(先進国化)』などの関連ってのは所謂経済学で言う歴史的予測というか社会学におけるゲマインシャフトとゲゼルシャフト論も同様に時系列的予測なり推論に基づいているのであって、純粋に単体のというか環境なり時代考証抜きで個人を特定すると「アダムになっちゃう」という無茶な要素からわかるとおり相対化された論証なり観察が不可能になる訳だ。
言い換えれば心理学というか精神分析でもいんだけれど、それは「結果論的な断片」であって普遍的結論などでは全く無い(なんていうかなフロイドは力動論の展開でここんところズレちゃったんだと思う)。

何言ってんのかっていうと、
「仮にこの人格が封建時代に生きているとした場合」みたいな”IF”が全く成立しないワケ(なので構造論っちゅうことなんだが)、
経済学で説明する方がわかりやすいわな、
「現代的に高度に発展した証券会社をポンと戦国時代にタイムスリップさせても何ら考証すべき意味と言うか経済学の話以前のSFファンタジーになるだけ」みたいな話さ。
(果たしてそれを時間に対するアイデェンティティーと言うべきなのかはともかく)

なので『被(こうむる)』とか『抗(あらがう)』ってのは動名詞的っていうのかな、時間的なものへの関与に対する”形式”だよこれ。
(勿論『抗(あらがう)共同幻想』だってあるのだし、)

さて、そうなると、
極端な『共同幻想な人』は石器時代とかさ”原始共同幻想”な時代を背景とするだろうし、極端な『単独者』は近未来のベーシックインカムなんかが標準になっている時代の話になる(或いは人が死なない時代)。
”原始共同幻想”なんてものは極端に言えば「ほとんどサルの本能に関連付けされている生物の習性」にギリギリ近いワケだから『共同幻想』特有のドグマ性というか簡単に得言えば似非でインチキなところも過少になる。
=強迫性の論証が極端な合理性の前に負けちゃうような背景になるから「これはもう幻想とはほとんど言えない」事になり(ほとんど自然環境)、適応に対する強迫性のストレスも無いのだから「共同幻想らしさが無いのと同じ」とも言えなくもない。
この場合、無理筋を可とするロジカルなレトリックも必要無いから「おひれはひれが付いてあげく余計なところまで自意識が抑圧される悪循環性も過少」、
時代考証的に石器時代なんかに(そもそも語彙というか言葉の数が少ないんだし)「所謂抽象概念」なんてものはせいぜいが『神』などの現代社会でも限りなく空想の部分(最初から空想バレしていい幻想)だけで(具体的になるほうが無理筋だしかえって神話性が失われる)、その物語にもおひれはひれがつかないから自意識に余計な抑圧が派生拡大しない(第一共同幻想でお馴染みの権威主義なる構造も集落単位でシンプル過ぎてたいした意味を持たない)。
確かに現実世界の選択肢は少ないが(戦争になった場合の帰属性も強固)、自我が活躍する場面は「やんのかやんないのか的自己責任選択場面だけ」になるのだから、これってもう『自意識マター』じゃん。

この話の皮肉は「原始共同幻想は幻想性が無いので事実上”原始人類の習性”である」となるので、この段階で心理的に言えば”例外項目の固定部分”って事だよね。
(当時は「そこから外れる=死」なので例外の想定はそういう意味で無くてもよい)
実に簡単な話で『共同幻想』ってのは戦後の現代心理の分析から出てきているもので、時代考証的に先進国化への過渡期なりの”現象”であってその特徴が”幻想だ”ってのでそういう名前がついてんであってさ、幻想性がなければ『共同幻想』特有の特徴なり弊害なりが派生しないのだから、解体もクソも原始社会は「人類の習性以外は自意識マター」という点で”在り様は『単独者』みたいなもん”なんだよね。
(群れ(バンド)はあってもクラス(階級社会)ではない)

現代の『単独者』が得意とする屁理屈も元ネタは封建時代解体だとか古いドグマと闘争する延長にあって(リベラリズムでも何で社会的関係性はどうでもいいんだが)、結果論的に人類社会が身に着けて”しまった”オマケに過ぎないのは事実で、
(ダメダメ時代があるからその屁理屈が論証できたのであって)
言うならばだ『単独者ネタ』の大半は時代との関係で相対的に派生している事にならないかい?
(ほらその時点で「闘争として共同幻想ネタがらみの個人所有権・著作権的記憶を誇示したとしてもそれは幻想発ってことじゃないか?」)
でー上記仮説から『単独者の生業』をだ、ごくごくシンプルにそぎ落とすとですね、
「こりゃ原始時代のアレレ?」
(つまりぐるっと回って元に戻るって奴で、)
そもそもが「自分が人類である」という概念だって”概念”なんだしさ。

見方を変えれば、
文明化に舵を切った次点で「インチキ臭い共同幻想が必須になる」という歴史的経緯で、これは当初これを捏造しなければならなかった問題(近代以前で市民の民度に著しい差異があるなど)が解決してしまえば不要なものだったとも言える。
そこで『許容範囲の社会性ノスタルジー』みたいなものを最大公約数的に「保守思想なんかでは(その思想を背景にすれば)幻想性を派生させない共同幻想」として「現代社会でもあり得る共同幻想」みたいな定義が(或いは個人の自由領域的にも)成り立つのであって、
『共同幻想適応サイド』としても「所謂幻想性(強迫性の拡大)」を忌避している事には違いが無い。

■結論「所詮同じ人類なのだから同じであったりまえ」つー事か、
(原始時代でも現代でも農業は同じ農業なんだし)
時代背景との関係性からゴチャゴチャといろんな歴史が派生しているだけで、そこは本丸では無い。
(お話だとか研究テーマ的にはそれはそれは興味をそそる話だけれど、)

『単独者論』をする時なんかに、
「なんだかあたかもフランスあたりの実存主義文学者みたいな、気色の悪い社会運動みたいなアレな話」を持ち出すと興ざめする理由でもあるけれど、単独者なんてものは究極「今日の晩御飯はラーメンなんかカレーなのか」のような大問題に対してだ”気さくに””気ままに”””適当に”「さーてどうすっかな」的に関与する場面が真骨頂なのであって、インテリっぽい話と勘違いされると大間違いなのである。

歴史的経緯からすると「ワイルド時代(原始時代)に戻っていいかな」的なひとつの判断みたいなものだろう。
(歴史的に『似非共同幻想』を一度時代が経ているものだからイチイチ『単独者』みたいな定義が必要なだけであって、)

「どーでもよくないことなどない」的無頼に至らないと単独者論的にも食い足りない話になるような気もする。


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posted by kagewari at 21:18 | TrackBack(0) | 心理学テキスト「Why not」 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする



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