人類ヒト科の視界やら他五感で認識されているイメージもこの時点で偏っている。
360度の視界のある生き物だっているし超音波で対物感知している生き物もいる人間の目をレンズにたとえると35oって話があるように、これが広角や望遠レンズに変わるだけでも世界は変わる。
これはひとつのイメージであり、
だからこそ絵画の世界は「より実存する現実」を求めて(2次元の世界に)古代から延々といろんな挑戦をしてきているのだし、
映画なんてもののリ”アリティー(現実性や現実的)”などはもっと大胆で、人の一生をモンタージュなどの技法と、背景音楽付きで表現しますが、
「なんだ2時間じゃねーか」だとか、
「こんな時後ろで音楽なんかかかってネーよ」などの不平を口にする人は少ないです。ゲームの演出もそうですがドラマには音楽が欠かせなくなっており、
実際みなさん音楽ってものを聴く時に「その気になって聴いてる」状態ですよね。
「こんな音自然界にはネーっす」とか言う人はほとんどいない。
そうなると、
「果たして人の脳内において現実はどれだけの状態で認識されているのやら」と想像もつくというワケです。
■「誰しも”かなり”ハチャメチャな状態ではなかろうか」と、
(背景音楽かかってたり、記憶がモンタージュ的に編集されていたり、何故か登場人物が俳優的美形化デフォルメのフラグ立てていたり、)
事実人は芸術において壮大な交響曲やら名画のコレクションやらで恍惚と何かを感じるのであり(それが愚にもつかぬ空想であればそうは楽しめない)、
思うにその表現された何かは「イデア」に近づいているのか、或いは脳内の”それ”をあたかも言い当てるかのように表現していることになるのだろう。
哲学的に見れば「イデア論」(その後のアイデア)の着想からして、
これは素で見えている現実への疑問というか、
それとは違うところのなんとやら的格闘が話のメインになります。
(平たく言えば曖昧な現実云々ではなく真実は何みたいな問答ですね、)
これに対して冷徹なリアリズムってのは、
言うならばジャーナリズムですよ。
ドキュメンタリー映画でもいいです。
必ずしも執筆者や監督が個人的意見をそこに含めていないのではありません。
ジャーナリズムやドキュメンタリーにおけるリアリズムは「専ら”情報の羅列”とその解釈に特化する事」で担保されてます。
ドラマのような「終わり(エンディング)」もありません。
芸術のアプローチも同じですが方向性が違う。
「ひたすら違うんじゃ無いかと追及し続ける姿勢」そのものがジャーナリズムであったりドキュメンタリーであったり芸術だと言い換える事もできるでしょう。
だとするならだよ?
(昭和の表現で大変申し訳ないのだが)
明日のジョーにおける台詞じゃないが「明日(現実)はどっちだ?」。
ここで芸術におけるイデア論的アプローチをですね、
「現実逃避と呼びますか?」
言いませんよね。
(鉄板で共同幻想に価値認定されている場合には特に)
ところがやれゲーム世代だの、ネット依存だの言葉はどうでもいいですけどね、自分にとって都合の悪い”表現”なり自分が興じている芸術なぞの価値をあざ笑うかののうな「その時代のサブカル」に対しては『常に現実逃避のフラグ』がついたりします。
(ビートルズだって出だしの頃はさんざな言われ方だったのであり、そんなロックに興じる若者は「現実逃避している」と当時は言われたワケです。←この価値がひっくり返ったのはビートルズが女王陛下の前で演奏してからなんでしょう。)
■心理学的な意味での現実逃避ってのは「強迫心理にのまれる」事であり、
現象としては「自己嫌悪という反動的且つ逆転的な興奮にナルチシズム的に固着してしまうこと」なのであって、
本人が「こりゃ面白い」と興味を惹かれて楽しむなり感動するなりの行為は決して『現実逃避ではありません』。
たとえそれが映画マニアだろうとゲームマニアだろうとアニメオタクだろうと「事の本質というかサブカル世界を認識していればアリアリ」なのです。
(注:映画マニアな人ほど強い批評性があり「リアリティーに欠ける」など言うわけで、求めているのはこの場合も現実なのであって、現実から逃避している人が「リアリティーに欠ける」などの批評をしますかっての。)
さてここでひとつの仮説が成り立ちます。
■『共同幻想は組成としては強迫心理である』
厳密に言えば共同幻想は多数決的リテラシーで合理化されているのでそのままでは一概に「強迫心理」と言えないが構造は強迫心理と何ら変わらない。←『共同幻想社会』がそれでも壊れないのは”インセンティブ”がセットになっているため。→つまり交換条件によりこれは均衡している。
(『共同幻想』における”インセンティブ”とはお祭りや(旧時代は事実上の乱交パーティー)、権威による認定(IDの付与)=安全保障など。)
(勿論当該自我が『単独者』の場合疑いも無く『共同幻想は強迫心理』と何rな違わない:単独者には『共同幻想』の多数決的合理性が無効であるため。)
ところが『単独者』であったりその予備軍である『共同幻想崩壊過程の離脱者』にとって、『共同幻想』は強迫心理でしかない。
つまり、
『現実逃避』なる言葉を、前述の定義から現代社会に照らし合わせると、
「もう既に崩壊している『共同幻想』の中で、(これを素で批判的に認識できず)自己嫌悪的にこれに依存するように無理な適応を続けている”どっちつかずな人達”」となります。
言い替えれば変にまともを装う事のがベタな『現実逃避』であって、
(いえいえい当該人物がハートマン軍曹並みに筋金委入りの『共同幻想ニストな方』であれば全く違いますが、)
■こう考える時「現実ってなんだろう」と思うワケです。
(ここは生物学的意味から乖離して「人間」なる得体のしれない抽象概念を中途半端なままにあれこれしているのとよく似た話なのですが、)
現実ってのは「わからないもの」なのでしょう。
わからないから永遠に興味を引き続ける。
(芸術においては無限の表現がある)
ここは時制で考えてみればいいのです。
現実なる止まった次元は存在しません、
時間は常に流れていますから、補足した瞬間それは過去でありもう現実ではありません。
言うならば現実なんてものは『パスカルの賭け』的に未来を受けるというか(時間の波を海の波になぞらえればサーフィンをしていて先の波を見ているように)、時間に挑むような”形”(或いは構造)なのであって、
(なのでアクディブを『抗(あらがう)』と捉えるのがピタッとくる)
「現実とは時間に対して挑むような形なのであって(『抗(あらがう)』)、現実という事象が存在するのでは無い」
単独者の場合は特別説明しなくても話は難しくないので省略。
↓
現代社会では稀な存在になりつつある『共同幻想ニスト』における現実ってものでこの話をしめますか。
「『共同幻想』にとっての現実とは保守本道(の本質)を追い求め続ける事である。」となるんでしょうね。
ですから”保守”なる思想哲学を曖昧にする(否定論肯定論含む)『共同幻想』は似非(現実逃避も同様)だって事なんでしょう。
(現代社会では「適応しただけの『共同幻想』」はもうほとんど”前崩壊段階”のような形でしか現状を維持できなくなっている。)
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