『自己責任』
このキーワードが重要になってくる背景は、
そもそも時代としての心理的な問題の過半が「共同幻想の崩壊過程」なる文明論的な時代変遷に起因するためで、
社会体制が「保守的政治」から「民主政治」を模索しているように(経済で言えば「管理経済」から「自由経済」へのシフト)、この社会的ファンダメンタルの変遷は”個人”であったり”自由”であったり”当事者責任”により始めて機能するもので、
その世界の中で爆発的に増えているメンタルな問題のキーワードとして「個としての自立」が大きく関わるのは自明になる。
参考として哲学で言うところの実存主義が使えるって話は以前しているんだけれど、
http://kagewari.seesaa.net/article/84296493.html
重要なのは、
この「個としての自立」が=「単独行動型の人格を模索」じゃないところだ。
実存主義が”使える”ように、
その後の自我選択は「単独行動型」でもいいのだし、「社会協調型」でもいいワケだ。
つまり投票行動における二大政党じゃないけれども、その後の選択を決定するものじゃない。
自我の構造変遷として、幼児期から一度「個としての自立」を挟まないと、どうにも自我構造のバランスに偏向を残してしまうので「過程としてマスト」だと考えてもらえると確からしい印象になる。
この「一過性でも可の個としての自立」なる特殊な環境は、昭和で言えば「若い人」と言う言葉に集約されたり「青春」と表現されたような「ちょっと調子に乗り過ぎなぐらいの理想主義」で”丁度いいぐらい”の過程を意味していて。
「ちょっと調子に乗り過ぎ」な部分が、旧自我における家族的保守性へのカウンターである事は説明の必要もないと思う。
強迫構造に喩えて言えば、デフォルメされ象徴化された(家族主義的)権威性(=妄想に近い)への幻滅から、これを補完するために理想主義が入り込みやすい状況からこの過程は極自然に起きるんだけれど、
この動作を、現代社会はかなり意識的に行わないと”自我の現実化アップデート”とも呼べるような仮想権威性超自我(子供の超自我→仮想道徳性)の解体が重苦しくなるというか、思ったように進まない結果となる。
フロイド期のメンタルな問題は、リスク世帯(所得が高かったり、権威性が強かったり、極端に言えば本物のの貴族だったり)や、宗教的な戒律との関係や近代社会そのものの問題等における個人心理学的な現象が、社会問題的に進行しているワケであって、
当時の問題性が比較的『性を中心にした論議』であったものが、現代社会ではやたらと”社会適応”であったり”コミュニケーション”であったりに変化しているのがその証明になっている。
つまり「”リスク世帯”としてユニークか?」と聞かれてもさほどそこに突出したものが見られないケースも多くなる。
(当然”リスク世帯(所得が高かったり、権威性が強かったり)”のリスクは”より高いリスク”として現代社会のメンタルにとってもその特徴を残しているけれど)
なので、以前より社会と個人の概念が精神分析において(これを補完する上で)必要になった結果「民主主義的自立」の概念を成立させるために『自己責任』なるキーワードが頻繁に登場する事になる。
この『自己責任』って言葉は、
「責任者出て来い」とか「ここは私が責任者です」とか「私の責任でやらせてください」のように、”所有権”とか”著作権”とかを意味する実存証明のようなもので、
裁判の世界で言えば「責任能力無し=無罪」となるように、責任性が非成立だと”そこに何も無い”事になってしまうため、当事者として存在していないかのような(=自意識抑圧)場ができあがってしまうためヤバイワケだ。
つまり『自己責任』と「(一過性でも可の)個としての自立」は不可分の関係で、
その意図は『当事者意識の実存』にある。
何かって、そりゃ
「自意識も登場人物としてここにいますよー」なる体感(や認識)の事だ。
簡単に言えば
「どちらかの政党に投票したと思うけれども、どっちに入れたのか憶えていない」のじゃ「どうして○党に投票したのですか?」なる話すら構成要件を満たさないのであって、
「どうして私は○○な時に○○なのか」的な相談事例やメンタルな悩みってテーマにおいて、「何をしたのか自分の存在そのものに記憶が無い」となると、
「・・・え」で終わってしまう。
ところが、
「私が○○な時に○○した人は○○で」のように『被(こうむる)』としてリアクションしている記憶や認識は”その必要無いほど過剰に印象記憶(事実から離れ真面目に間違っているケースも多い)として残っている”。
どんな感じかと言えば
「え?私はいんです、私がどうしたかじゃなくて、○○に○○されて私は○○関係に」
”私はいんです、私がどうしたかじゃなく”の『私』と
”○○されて私は”の『私』、
この二つの『私』が、まるで同一人物では無いかのような認識の偏向があって(過剰な無意識振る舞いについて全く自覚が無いので”主格としての私”が認識から欠落する)、云々かんぬんになる(ここから先を説明すると別の話になるので省略)。
この現象を相対化する上で
自我構造的に『被(こうむる)』部分が過剰で誇大→強迫構造が存在し自意識が抑圧されていると「どっから見てもそうなる」ワケで、
対立概念としては自我成立過程における思春期を代表する言葉として「反抗期」があるように(実存主義のメインの概念が”反抗的に生きる”である事に着目)、心理学的に考えると『抗(あらがう)』という形になる。
その『抗(あらがう)』という実存における必要条件のひとつが「自己責任」となる。
ここは逆も真で、
『抗(あらがう)』とか自立等意識する事無く、
「自己責任性の成立に集中するとほぼ間違い無く形として『抗(あらがう)』が成立する」ので、そんな意味でも自己責任の認識は重要になる。
さてそんな自己責任の”捉え方”だけれども
方法論は簡単で、「自分が選択した結果を全て”自らの意識で選択した”」と確認し、
必ず「何故その選択を行ったのか(根拠)」を明解にしておけばそれでOK
特別他にする事は無い。
単純な話事実関係の認識として「自分から選択した行為」の数が増えるので(強迫下だと抑圧され認識されていない自己決定が多いためそれを浮上させる)、リアクションとしての『被(こうむる)』が常々自称する正統性根拠である”判例主義的証明”が大幅に弱くなる。
↓
記憶の数として「○○したんですよ」が増えて「○○された」が減るって話、
で、次の過程に、
過去事例に不満な点がある場合「○○した」なる自己決定の部分は、周辺や背景事情と全く関係無く自己選択として”可変だった”事になり、
ぐるーっと回って、本当は実存していた「自意識の当事者権利を回復することに成功する」事になる。
ここで、「え?(圧力のように感じたものは)何だったのか」と、強迫構造を視野に入れる事ができる。
※強迫構造がやっかいなのは、構造上無意識に構造化しているので自意識に視野に入らず(=自覚が無い)、その存在や介在を意識するのは難しいため。
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