「人の関心事項はどこまで本音・本心と言えるだろうか」シリーズ
https://kagewari.seesaa.net/article/510058304.html
https://kagewari.seesaa.net/article/510078446.html
■今回のテーマは「有能な評論家の視点とは何か」みたいな話さ
(はたまたマッドサイエンティストってのは何が”マッド”なのか?かしら)
参照記事読んでもらえばわかると思うけど、
人が強弁したり、関心事項だと”思い込んでいる”ものの実態は「背景や立場の説明」であることが多く、時代や立ち位置が違っていたら全く同一人物でも違ったことを言ってるだろうって話。
(※それと対峙して、自我を持った飼い猫はどんな時代にどれほど違う国に生まれても”同じネコ”であると同定される←帰属ではないアイデンティティーの本質はこっちである)
さて、自由意志の表明が大概の自我実存なのだとした場合
※言いたいこと言えてる人に悩みとかないだろの参照記事が以下
https://kagewari.seesaa.net/article/509838866.html
”思いつく”或いは理解するってことが自我においては「かなり広範に全てだ」ってことになる。
要約すれば、
■リアリティを担保してイメージできることは”それを手にしたのと同じだ”
↑
これはさ、ある意味評論家視点なのだよ
仮の話、大谷君の打撃をリアリティを担保して完璧にイメージできる人は(練習とかしてないからさww)自分自身はさっぱり打てなくても「その打撃を体感できる人物だ」となる。
※いやいや大谷君のように稼げないだろうとか無粋な事言う人いるだろうけど、おま大谷君が金のためにスポーツしてるのかってそんな小さいアスリートちゃうやろ。
この亜種と言うか”小規模ながら”類似するものに
(非常にしょっぱい個人的なことで恐縮なんだが)
ライブ動画などを観て、現場会場にいるのと全く同じ体感を再現できる場合、
「その人は実際にライブに行ったのと同じだ」となる。
(これは真面目な話錯覚の筈なんだが、俺さヘッドフォンの大音量で音楽聴いてると足元に振動感じるんだよね。変だろ?それおかしんだけどさ「あれトラックでも走ってるのか、いや地震か?」などマジに再確認することあるんだよ《異状にリアリズムのある夢を見るのと重なる現象だと思うけどね→この前PCである図面探していたんだけど、、「あっ、夢の話だった」と苦笑いする←夢を見た》)
他にさ、異常に役作りに没入する役者さんとかおるやん、
(撮影前には登場人物の墓参りまで行ったりさ)
役者さんの再現イメージがマジ本人レベルだった場合、「何か降りてくると思わん?」
鬼気迫る演技とか言うやん(共演者も本当の○○がその場にいるようだったとかさ)、
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