そうね『共同幻想』論的に、
たとえばの話、何か複数人がいて「あれやっとかないと」があったとする。
この時『共同幻想』適応社会でよくあるのが(割り勘ってのもその類型だけど)”じゃんけん”だ。
「誰がいくか、そしたらさじゃんけんで決めようか?」
な〜んて話になると、俺はだいたいのケースで「いいって、俺がやります」と答える。
『単独者』の生理的に「”じゃんけん”で決める」などというのがあまり好きではないからだ。
(”じゃんけん”するぐらいなら、俺がやりますから勘弁してくれみたいなものさ《概念の共有感覚をアピールされる事自体『単独者』は苦手だからねww》)
典型的な『共同幻想』だろ?グーチョキパーで勝ちが決まり、どの組み合わせだとどっとが勝ちか「みんなわかるよね?問うまでも無い常識だよね?」
(ここで何それいやいや知らんがなとはにわかに言えないものだろ)
このルールの背理は『共同幻想』適応同調圧力社会に社会適応する場合、これ構成員は見かけ上全員同一人格となるので、仮想全員が同一人物になる(ラグビー用語かと思ったら語源は仏文学の『三銃士』なんだと:One for all, All for one.)。=わかりやすくいうと「誰でも同じ」
つまり”じゃんけん”とは誰がやっても同じなので(全員同一人物であるため)どうでもいいから適当に誰かを選抜する方法なワケです。その場の勝ち負けはプロレスであり茶番なワケさ、
でさ、ここに仮の話だが
「まーじゃんけんで決めてもいんだが、まいっか(誰でも同じだ)」な状況があるとする。
この時構成員は階層順位や適当なその場のコンセンサスで「誰を指名してもいい」ことになる。
(どうせ誰がやっても全員同一人物なので同じだからだ)
●とりわけ、俺のような『単独者』がその場にいた場合、どうしようかなどの雰囲気が0.1秒でも感じられれば「俺やろっか」と志願するぐらいの話だ。
勿論『共同幻想』適応社会にはカースト順位列がある。何かを頼むときに偏重がおきても不自然ではない、(殊更に下っ端扱いしているということもない《権力闘争の最中でもないからだ》)言いやすい下層カーストが存在する場合(愛層のいい大人しそうな末端適応者《俗に言う”いい人”》)、そらそこに偏重することもあるが、構成員は誰もが最下層だった経験があるので(先輩というだけ)、この偏りは(世代的ギャップがあってもこれ時差に過ぎない)「誰でもいっしょ、同一人物だから」の意識に違いは無いのだよ。
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よく誤解される、古の田舎集落の文化などに以下のようなハードなパターンがあるけど
「おい新入り、あれとこれとそれとそこ、お前やっといてな」
「えー、めちゃめちゃあるじゃないですか」
「俺に文句言うとか”10年早い”」
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前段の説明読むとこのやりとりの意味わかりますよね?
命令している先輩は自分が若手のこと、世代的にもっとおっかない先輩にメッチャこき使われており、世代ギャップと言うか時差があるだけで(10年前の俺の時は君と同じどころかもっとやらされたから)、”適応論”的には公平なんです(個別に言えば公平どころか時代を意識して”優しく言ってる”)。
【昭和の体育会系で説明知ればわかりやすいと思うんだけど】
「お前さ、星野監督の時にはベンチ裏でボコボコだぞ?」
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この”適応論の原則”を何を取り違えたのか、
「自分がやられたことを、下のものにやろうとしている」なんて薄っぺらい解説する人いるけど、
そういう意味では無いのわかるでしょ?
「同一人物でなければ”適応仲間でいられない”のだから、自分がやられたことを”必ず”後輩にも体験させないと”同一人物であるという同調圧力の掟が破れる”」のですよ(人によってはそれを伝統という)
●勿論自己都合の不公平はある(誰もが”自分はもっと大変だった”と自慢したいからな)
とはいえだ、
そういう不条理が原理原則となっているのが『共同幻想』社会適応というもので、
=ブラックであり=ハラスメントなのさ
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■現代用語のハラスメントとは=『共同幻想』適応社会撲滅宣言のこと
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