(政治的判断って言葉の意味があーた”妥協”じゃん)
■そこで政治家における感じのいい人だとか、対人関係における「話のわかる人」から言えば、
「どうしたいなどの大枠の選択肢」だけはっきりしているが、
謙虚なので(今の自分が究極だと思わない事)”その人の自我タイプなりの範囲内で”無限に妥協的に考える事のできる人となる(=これは可能性だよ)。
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じゃあ、対人関係がゴタゴタするのはそれと逆の人だから
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「どうしたいなどの大枠の選択肢」がまったく曖昧なまま、
強情で(あたかも今の自分が絶対かのように)1ミクロンも妥協することなく(妥協したら負けだと思っている)、今現在の考えと異なる話や情報を否定する人となる。
●時に全者のかんじよさそうな政治家タイプを”融通無碍”に思うかもしれないが、
それはさ、前回登場の以下の人と同じであり、
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話を聞いて、「うーん、どうしたらなど」(結論はともかく)深く考える人物のがよさそうに思えるじゃん。
しかし、このシーンを切り取り動画よろしく編集して画にしたらさ、
無知な原理主義な支持者は「保守とか言って裏切者ガー」になるじゃん。
これは相対論であるのと同時に、関係性の認識だよね。
当事者の間で平等な関係性の認識があれば「(前後のプロセスも踏まえ)”自分の考えはともかく”相手の考えを攻撃対象と思わない(尊厳を認める)」となるので、話を聞くことに抵抗はなくなるだろうし(これも一種の妥協)、遭遇した縁も自らのアイデンティティーの一部だと理解できれば、対人関係という妥協も自分らしさを毀損するものではない。
重要な事だが、その関係性が自分なりの考えを変える訳では無いんだからさ(関係性や社会性って部分やん【或いは政治的判断】)、「そこで短絡的に激怒したりすることは」場合によると自己否定に繋がりかねない(或いは未知なる可能性の否定)。
てかさ、否定も何も自己の定義が曖昧だから関係性が破綻しやすいとも言えるだろう。
(揺るがない大方針があって《そこには自信もある》、プロセス重視で謙虚な人ほど「局面の妥協範囲は可能性として広い」=話せる相手である)
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