最後のここ
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先進国化にみられる特徴の一つに「子供が早熟である(大人っぽくなるのが早い)」というのもあるし、現代社会は男性の草食化やブログ規約記事になるような若者のほとんどが交際相手おらずと裏腹に、子供達が男女で語らっていたり、明らかに中高生が男女のカップルで行動することの抵抗感が軽くなってる様子が観察される。
この様子を見ていて「不純異性交遊のようにおおよそ”見えない”自然さがある」んだわ。
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男女がさ、互いに”相手の性別事情”ってのを知ることが「社会的な角度から”性の嫌悪”を緩和し」、自然に女性差別史観が迷信のように消えていくって可能性もあるのかも知れない。
●やっぱ、ここが鍵かな。
間違っちゃいけないのは、これが「男女でも恋愛抜きの友人関係があり得る」みたいな綺麗ごとでは無いのだろうし(この着想はもろに”性の嫌悪”だから)、かといって殊更に異性関係を意識したものとも思えない(「恋愛幻想」をあまり意識させないから自然なんだろう)。
過渡期の現代、
現代多数派の「最低でも歩留まり階層」は、『非婚・晩婚』の理由に「出会いの場が無い」とよく言うけれど、更に彼等より若い最先端の世代の様子を見ると、早熟化により(これさ思春期『反抗期』が身体的発育の思春期以前に部分発現してることにならないか?)”性の嫌悪”のピークを回避して大人化が先行し、”性の嫌悪”と児童心理を関連付けずに大人化先行で、「恋愛幻想」抜きの自然な異性関係機会が増えてるんじゃないかと思うのだよ(次世代では「出会いの場が無い」などいうことは消え失せるかも知れない)。
確証のある話じゃ無いけど
(現代の子供たちの様子も単に俺の人間観察の感触だけでしかないから)
俺の推理があたってるなら、若い世代は自然に『賢者モード化』してることになる。
その世界では女性差別史観は過去の異物となるかも知れない。
街場でみかける、子供や年少者の男女の様子は、
どことなく「男女平等感」あると思うんだよね、、、(確証無いけどさ)
昭和を生きた中高年の俺としちゃあさ、素朴にいい時代になってきたなと思うんだよね。
(俺の感想が、中高年特有の綺麗ごとの妄想なのかもしれないけどね)
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タグ:性の嫌悪