<各所、少々校正と末尾にちょい追記編集、そしてまた末尾追記>
たとえば、セミの鳴き声は”いいの?悪いの?”
愚問だよね、いやパラドックスだそりゃ
今日の晩御飯がさ、お茶漬けだとして(そら栄養がどうした普通ご飯とはこういうものだなど結構な御託はあるだろうけど)それ自体を能書き無しに”いいとか悪いとか”真面目に思っていたら性質の悪い病気だろ。
現象だけを個別に理解する時、いいとか悪いのベクトルとか存在する?
(いい2悪い4とか《そんなこと言う人俺はこのかた見た事が無い》)
いいとか悪いの認識や評価を否定してるのではないぞ、
個人が何をどう思うおうが自由だから。
ところがさ『共同幻想』社会適応論持ち込むと、価値観が同一人物だってモデルになってるから(普通そうでしょって奴)、あかたも能書きを前提として”いいとか悪い”とか個別にあって観測できるものかと思ってしまうのだが、ガチで”そのまま幻想”だし、
法律や倫理道徳を否定してるのでもないぞ(個人がどう思うおうが自由だし、社会が『民主主義』出回ってる関係上そう言う合意はあるが、「疑わしきは罰せず」の法理論が悪いことだとは言わんだろ《それ決めるのは法廷だ》)、信念だとか個人の心情でそれをなんぼ主張しても構わないしむしろ自然だと思う(俺だってマスコミは害悪だとか思ってるし)。
しかしだ、それが(個人的ないい悪いの判断や印象)実体ともなって存在しているかのように思い込んでいたらヤバイということです(その人にはきっと神のイメージも見ていることでしょう《真面目にそう思っていたら性質の悪い病気だろ?》)。
【それとこれとは話が別だ】という話。
なんつーか、それはどこにも何ら矛盾しないから。
■時にそれが『心理学』など、自我を相対化して何がおきてるんでしょうなんて考えるやり取りの中で、”いいとか悪い”持ち込むってのは、『心理学』を『共同幻想』論の尺度で解釈しますって宣言しているのと同じなので、本末転倒なんだわ。
(いやいや、倫理や道徳を否定してネーんだわ、真面目な話。)
定番の話で言えば、
「ブラック企業でなんとかハラスメントのPTSDで」←このお題で、悪いんですね〜って『心理学』か?
(そういう話じゃないよね)
知人友人に怒りをぶつけるのも自由だし、当事者に復讐するのもいいでしょう。司法に訴えるのも結構なことだが←これは『心理学』なのかって、俺はとりわけ冷静に説明してるだけ。
(素朴に考えれば誰でもわかることでしょ。屋根の修理してる時に、「今度の悪い台風が」とか横から朝から晩まで聞かせられてみな?《お気持ちはわかりますが俺に言う事か?》「修理の邪魔だろーが」)
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