(仰々しいものでも無いので「『自営業』の雑感」ぐらいの意味で読んでくれ、、)
帰省時には地上波を何気に観ることになるのだが、
米制作の映画マトリックスを巡る米世相評論と映画解説の話が酷すぎて(ま俗に言う嘘ばかりのトランプ批判だ)、監督のウォシャウスキー兄弟(現在は姉妹)と性転換の話含めて書かざるを得ないと思ってね。
■これはジェンダー全般やLGBTの全てに当てはまる話ではないので誤解のないように
(あくまでも『心理学』的解釈の一説であり、一説でもその可能性がある限り意味を持つと思う。)
心理的現象としてのLGBTってのは、普通にあり得る。
その端緒として、”性の嫌悪”と「腐女子」で考えれば誰でもわかると思う。
「腐女子」がLGBTほどではないが、趣味趣向の範囲であり得るのだとしたら、性的趣向のひとつと分類されるLGBTを「腐女子」と関連させて何ら矛盾は無い(「腐女子」はそれが理由で性転換することはないというだけだ)。
にわかに日本人には理解できないかもしれないいが、欧米には(ここはエディプスコンプレックス深過ぎな当事国の『共同幻想』事情、とりわけ宗教の位置づけなども違いの理由かもしれない)「四肢切断願望」という事例があってだな、本当に手術して何ら障害の無い手足を切断する人がいます。
素朴に考えて、誰でも思いつくでしょう。
これは赤ん坊時代の無力感の状態を再現しようとするものだ。
(同じ”性の嫌悪”でも思春期以前の第二次と呼ばれることもある児童期の中間反抗期において既に”性の嫌悪”が発生した状況と考えられる。)
「いやいや、トランスジェンダーは別の性になりたいんでしょ?」とお思いの方もいるかもだが、
「腐女子論」でも明らかなように、自分と違う性別の世界のホニャララなら楽しめるって意味だから。
空想上のというか、想像上の別の性の世界は現実から切り離された異世界みたいなもので、少し話は逸れるが、LGBT時代前の「ゲイの世界あるある話」に、ハードな性行為はむしろ多くないってのがあるのね(ブログで書くのはこの辺で察してくれ)。←過去ログによく出てくる「日本セックスレス協会の判断基準の範囲」ということさ、
説明するまでも無く、”性の嫌悪”と”同性愛”ってのは”退行化”による(近現代まで子供は同性と遊ぶことが普通だったため)同性を対象とするものと同時に、行為のソフト化は同様にグロ回避なのであり、そのまんま”性の嫌悪”『退行』化と関係するのね。
※ここでは書けない論拠ももうひとつある
↑
(これは児童心理と実年齢の性欲に折り合い付けた結果さ《また古代から人類はそもそもバイセクシャルの素養を持ってる←これもイカレタ進化の結果、本能が壊れそれがよれたもの》:生物学的に恭順や降参のポーズや新参者の挨拶として同性でも”疑似性交”のポーズを示すことが哺乳類世界では珍しく無い「そのモチーフは本能レベルにも存在する」。俺の記憶が確かなら「ネズミの楽園《社会崩壊》実験」でも類似の状況が発生したと思う。)
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タグ:『共同幻想』