「十分に日課の散歩をした犬は満足そうだ」
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この文章を読んでいただきたい、
(抽象的でも幸福そうな犬の様子が脳無にイメージされていると思う)
しかし、日本語としてどうだろう?
本来よくある表現は以下となる
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「十分に日課の散歩を”楽しんだ”犬が満足そうだ」
(日本語としては後者の方が自然だ)
しかし”何か変”だと思いませんか?
どうして犬が散歩を楽しんでるなど、犬でもないあなたにわかるのか?
思うにこれは、散歩の後の犬が随分満足気なので”楽しかったに違いない”という推論によるのだろうが、「だったらどうだろう?」
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仕事帰りのサラリーマンが、居酒屋で旨そうにビールを飲んでる様を見て
「仕事が楽しかったに違いない」と推論することは合理的だ。
●これに類似じゃないが、勘案すべき事例がある。
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若夫婦が些細な事で喧嘩している様を見て、近所のおばちゃんは
「随分仲のよろしいことで」言いますが、サラリーマンも、若夫婦も、ひょっとしたら犬も、当事者は「本人は冗談じゃないんだが」だったりもするのだろう。
(※もう一つ参考、アル中の「好きで飲んでるんじゃない」)
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この乖離は何?
思うに欲求と行動の経済学的には
(当事者の判定が快であるか不快であるかに関係無しに《快・不快原則》)
【実行された”仕事量”と相応する欲求が代謝されている】ことには違いが無く、
この均衡は、当事者の(ぶっちゃけ言えば)好き嫌いや快・不快判定の上位概念である。
(※過去ログにやたら登場する「実存主義哲学」におけるシューシュポスの神話ってのも上記関連《あの話も、”不条理でも合理的”と考えると面白い着想になるだろ?←そこで相克する様はいかにも哲学っぽいじゃん》)
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●更に理解しがたい部分のある論理になるが
「奴隷の心理」を考える時
・過酷な労働を課された奴隷は何気にその階級で安定するが、
・何もしなくていいと放置されるだけの奴隷は反乱を起こしやすい、
(※参考、最も暴動が起きやすい状況は「失業問題がある時」である)
この辺が理解できると先が早いと思うんだよね。
「ニワトリが先か卵が先か」”どちらが先とか意味が無い”←ここもカギでしょ
(物理学における「時間など無い」説に照らすと因果と結果は同類項)
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よくさ「やる気を出す」って言葉があるけど、
これは欲求原則的に「先に欲求する行動選択が仕事量として存在するのでは無く(ニワトリと卵の順番が逆転しても)先に仕事量がありきの場合(欲求があるのではないから)”やる気”として後付けで補填できる」って意味だから、
ひたすら労働が強要されるだけだと懲役刑だが、用意された(或いは与えられた)仕事にやる気出して取り組むと(順番はともかく)通常の快感代謝に至る”仕事量”になるんだよ。
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