言えば”適応者”達の「恋愛幻想」は、「結婚」というゴールに至るまでの過程である。
=だから”適応社会”では、結婚もせずにズルズル関係が続く事や、性的関係に至っているのに「結婚」に同意しないことが批判される。
(不倫や浮気が批判されるのも《妾制度はもう無いので》「結婚」という責任が取れないからだ)
彼らは「結婚」のことを俗称で”ゴールイン”とか言うでしょ?
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●近代『共同幻想』論的に言えば(ベースは宗教なので)
「結婚(出産)を目的としない性行為は禁忌」であり(悪性の遊びとして)批判された。
この派生が、不倫や浮気批判であり→それを「恋愛」として認めない理由です(「結婚」という目的のための過程になっていないから「それは恋愛とは言えない」となった)。
つまり慣用句みたいにはなっていないけど、
”適応社会”の「恋愛」とは、「結婚」という目的のための過程であり、「結婚」が目的化されていない異性関係は「恋愛」として認めない(セックスフレンドなどの言葉があるのもそういう構造)。
はっきり言ってしまえば(”適応社会”が概念として恋愛そのものを誤解しているというのもあるが)、現代で知られている「恋愛」と、”適応社会”の「恋愛幻想」は全く別物で、
近代の『共同幻想』”適応社会”において、”適応者”達も十分にそこを承知していた。
(そういう個人的恋愛感情を「抑圧」して、「結婚」を前提とする「恋愛幻想」に”適応”することが当時は美談とまで言わないが、何かの間違いだとか若気の至りみたいな調子で横に置いておくのが自然だった。)
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だから(卵が先か鶏が先か構文と同じように)
■「結婚」を前提とする関係は、自動的に「恋愛幻想」を派生させるので、
「仲間は誰でもOK」というルールが情緒的にも成立するワケさ。
仕組みは簡単、「結婚」を前提とした段階で、「恋愛幻想」は自動的に発動するからだ。
そこまでが”パッケージとしての社会適応”だったんです。
(当時は、それほどまでに「結婚」というタイトルは社会的に高い地位や業績として評価されていたから。)
<<<よくある勘違いは>>>
●事程左様に、”適応者”達は無意識に「結婚」というタイトルに強い憧れやインセンティブがあり(当所の女子の将来の夢は「《誰が相手であるかの前に》お嫁さん」)、
「恋愛」動機の原動力は『結婚願望』だった。
社会的には、(宗教系保守が自慰行為や不純異性交遊や有害図書やゲームを規制し)欲求を厳しく管理して「「結婚」というゴールのためなら許される」と設定することでこれを運用してきたワケ。
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当時も今も”適応者”達の恋愛模様は、上記構造(「結婚」を目的とするもの)であり、
その原動力は『結婚願望』だったんですよ。
それを錯覚し「恋愛などで青春を謳歌している」などと(どこぞの広告会社のキャッチコピーのように)捉えると、大きな勘違いとなる。
その仕組みを理解すれば
●「自慰行為や不純異性交遊や有害図書やゲームを自由解放すると、「結婚」をゴールとする「恋愛幻想」はインセンティブを失い陳腐化する」←これがサブカル現代社会の『非婚・晩婚』です。
(逆説的に論証すると、「本来の「恋愛」は、自慰行為や不純異性交遊や有害図書やゲームなどのサブカルで”表現されている”極めて個人的な感情」という意味になるよね。《自分が誰かと恋愛関係にあることは友人などに伝える必要も無い→なんとはなしに不倫や浮気を隠す感情とそこ被る=”非『共同幻想』的なるものである”》)
※『非婚・晩婚』と、「恋愛幻想」に懐疑的になることは”同義語”なんですよ
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