>ありがとうございます。療育を受けて他者への気持ちを考えながら動いたり、察して動けるようになった方が本人にとっても周りにとっても良くないですか?療育によって周りとの関係が上手く築けるようになること良い事づくしのはずですが、何か問題でもあるんでしょうか?
発達協調性運動障害の療育もすると筋肉も適切に使えるようになって不器用や運動音痴も緩和するようです。大人になってからだと手遅れだから早い段階からやった方が良いらしく、私の子供の時にあればなと思います。
■この場合の「他者って誰のことですか?」
『共同幻想』社会ですか?現代の歩留り個性化ネットワーク社会ですか?
上記はまったくの別物で、対立関係にすらあるんですが?
(ですから、そのいずれかを選ぶのかという個人の選択に干渉していいのは、法的に親権者ぐらいのもので《多分今後ここにも論議でてきますが》、本来自己責任【当事者だけに選択権がある】)
まず、その療育とやらの主催者は、この社会の現実を説明できているんでしょうか(『共同幻想』社会の崩壊と現代の歩留り個性化ネットワーク社会の台頭)。
ざっと見たところ彼らは、保守系『共同幻想』社会への理解を(他者への気持ちをなんとやらに)前提にしているようですが、この段階で時代とズレてます。
●そもそも単純に言って、
「どんなに対立軸があっても明解に自己主張すべし」が伝統の欧米の実例があるように(それが正しいと言ってるのではありませんよ《実例参考》)、
他者への気持ちを考えるって言葉が、事実上問答無用で『共同幻想』社会適応的意味合いで語られている段階で、これは事実上「特定の人格に誘導ししてる」ことになります。
言うまでも無く、「他者の気持ちの理解」ってのは「相手が何を言ってるのかその真意を読みとれるのか?」に尽きます(無条件に仲良くする理由など無いからです)。
これとは別に社会性という理解についても、
無自覚に反社会的行動を選択してムショに入っていいことありませんよね?
(やるならやるで自覚的であるべきでしょ)
ですから社会の論理を知るってことは必要ですが(あらゆる個人に反社会的革命的行動の選択権はある筈です)、知るって言語の意味が問答無用に「合わせましょうね」の意味だったら(これは”同調圧力”予定調和強迫ですから)『共同幻想』適応の人格誘導になります。
■周りとの関係って誰との関係のことですか?
『共同幻想』社会ですか?現代の歩留り個性化ネットワーク社会ですか?
上記はまったくの別物で、対立関係にすらあるんですが?
そもそも個人の自由意志は「自らの自由選択実現を最大の利益とするもの」であり、
そこに無駄に対人関係で自分の行動を制限されたら、単なるバカなので、自分の利益のためにも社会性の理解が求められ(海で泳ごうとするときに海流の知識が必要ですよね?ここでいう社会性の理解というのは海流のことです)、俗に言うwinwinになればよりベターだって話です。
あたかも『共同幻想』社会に合わせるために、自らの個性をスポイルして協調性を無条件に上位概念とするのであれば、「個人のモブキャラ化」に過ぎません(これは近代『共同幻想』適応社会時代に横行した人権侵害そのままです《身分制度幻想など:日本には欧米のような厳密な身分制度は無かったとされてますけどね》)。
仮に、その子が岡本太郎のような破天荒な行動を見せると治療が必要なんですか?
(芸術的人格傾向というのは、著名な作品が無いと許されないなんてことありません。《ちなみに米臨床が分類すれば岡本太郎氏はほぼ確実にサイコパスでしょう》「昔のソ連が前衛芸術家を収容所送りにしたのを思い出す」)
→続きを読む
タグ:発達障害