人間原理(にんげんげんり、英語: anthropic principle)とは、物理学、特に宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方。「宇宙が人間に適しているのは、そうでなければ人間は宇宙を観測し得ないから」という論理を用いる。これをどの範囲まで適用するかによって、いくつかの種類がある。
極端に言えば宇宙は人間のために造られた(場合によるとゲームソフトである)
宗教的には「魂が宿るのは人間だけ」みたいな発想
(エヴァなんかもそういう設定だわね)
あ り え な い か ら
”ネコ飼い(羊飼いのイントネーションで)”と暮したネコには自我もあるし魂あるから。
場合によると”イヌ飼い”さんに怒られるかもしれないが、危険性から厳しく躾けられる犬からは”素顔のようなもの”を見つけることはネコより難しい場合がある(俗に言う犬が怖い人の怖い理由はそこで「どうして怒ってるのか表情から読み取れない=何を発端に吠えだすのかわからない」)。
ネコは基本言う事きかないから(自分の意思がはっきりあるから)自我が育ちやすいのね。
自我を獲得後、話に説得力があればネコも「わかったから」言う事あるしさ、
それは”ネコ飼い”との意思のぶつかり合いがあるからで(個体やサイズにもよるけれど、可哀そうなことに同じ自由をイヌに与えると物理的な危険性があるからネコと同じように接するのは難しい《自分で飼ったことはないのでわからないけど、柴犬はネコに近いという説もあるらしい》)、犬ゾリ探検隊や牧羊犬のように「仕事による”快感代謝”の日常」が人に依存せず自分の生業として成立している方が、犬も気楽に素顔をみせやすいのではないかって気はするけど。
俺の偏見だけどさ、
『単独者』はネコが好き
欧米ロック民間評論家の日本のバンドやアニメにリアクション動画やってるyoutuberもネコ飼ってる奴が多いんだよね(どちらか言えば欧米は犬を飼うのが一般的と言われた筈なんだが)。
漠然と「会話が大事」なんて言葉があるけれど、
自我が育っていくプロセスでは大事なんだわ。
しかしだ、これ会話があればそれでいいってことでは無い(動物達の間でそういう話になるのは彼らが文字を理解できないからだ)、中段の話に戻るけども”意思”自分なりの考えってものを(それは論文でもいいし小説でもいいしネットの意見でもいいけど)違う考えと相対する様が重要なのであり(その意味でネットワーク社会の方が接点は多い)、
(”イヌ飼い”の人は怒らないで欲しいんだが)「弱い犬ほどよく吠える」言うけれど、一次感情を表明するだけでは意味が無い、それは本能であり衝動に留まるからだ。
論理性(自分に対する含めて伝えたい意思)ってのは”本能を代替、踏破するもので”(これ最初に思いついた人間は先に本能が壊れたとも言えるけど)、最初からオルタナティブ(alternative:代替)なんだよ。
体感された本能的一次感情を「かくかくしかじか、これはこういう ことで俺は何々をしようと思っているのだが」と自らを俯瞰する行為で、場合によっては妥協的なのね。←ここが”交渉”の始まり。
自我の本質はそんな自分のワイルド(自然)との交渉の産物みたいなものだ。
ややもすると、論理性は直情性に対して劣化しているように思えるかもしれないが(直感像に対する論理性とはデッサンのことだから《=理解》)、詩歌の世界があるように、これを説明しようとするプロセスの中に(科学の発見もそうだけど)種の本能を超える理解もあるのであってだな。
ちょっとした余裕=「ちょっと待てよ、これは何だろう」ってのがキッカケだろうと思う。
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