(仰々しいものでも無いので「『自営業』の雑感」ぐらいの意味で読んでくれ、、)
こんなん歴史的にエビデンス添えてみたいな話にする必要性がないだろから、
半分思いつき程度の論議です。
しかしさ、音楽の構造ってか音楽と社会は(以前も昭和『共同幻想』崩壊を大歌手の存在や紅白多合戦の変遷で説明したように)「説明がわかりやすくて簡単でいんだわ」。
■割と古代から楽器の存在が観測されていたりするように、
当初はシャーマニズム宗教儀礼なのか、吟遊詩人みたいなものなのか素朴な少人数編成の芸能が存在していたことはわかっていたりする(原始歩留り社会みたいなものさ)。
それが近世や近代にかけて、欧米では「オーケストラによるクラシック演奏」という形で貴族王族宗教権力を背景に、大スケール化する。←これが近世近代の『共同幻想』だよね。
スポンサーである「貴族王族宗教権力」を頂点とするピラミッド型の階級社会の中で、この権威を背景に、譜面のある(予定調和)集団化された大演奏。
この点日本は、各芸能に小編成の楽団が分化することはあろこそすれ、欧米のような大編成の『共同幻想』には至らない(それこそこれが日本に台頭するのは軍国主義化の軍楽隊からではないか?)。日本が伝統的にサブカル国家であった傍証でもある(日本にはマイスタージンガーみたいなの『ゴジラ』や『宇宙戦艦ヤマト』まで無いからww)。
さて、主として欧米の大演奏の意義だけど、
オーケストラと匠に設計されたホールの反響によって「とにかく大スケールで音がデカイ」ことを権勢というか(教会権力なら宗教的正統性)威光のような形であらわしていたことになる=当該社会の生存圏の大きさ(ここに適応すれば食っていけるぞと)。
<で、産業革命おきまして>
後にエレキギターやPA音響の発明、
少人数でも大音量が可能になります。
(ちなみに米国におけるJAZZの変遷は、マイルスのエレキの時代到来までアコースティクなままだったから、大ホール《バンドメンバーの正式所属はダンスホールの楽団》では無く小規模クラブによるマニアが集う演奏会的なサブカル文化だったんだけど、フランスや日本のような実存主義の理解の深い社会では長く楽しまれたが、商業的にもどうしたって小スケールになるので残念ながら伝統文化のような展開無く、フェードアウトした。)
戦後世界における、エルビスやビートルズの登場は「クラシックを大編成のオーケストラが演奏する近代モデルの否定」であり(後にロックコンサートと言えばアリーナやスタジアムなどの大きな会場を埋める様はまさに敵対的な姿そのまま)、後にクラシックが「確信犯的”再選択”保守階層の登場」により(”クラシック”というジャンルとなり)生き残っていく様も含めて、社会の変遷にそのまま応じた展開を見せる。
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