さて、このブログでお馴染み「退屈したら死ぬ病」ですが、
https://kagewari.seesaa.net/article/499690927.html
元ネタはこれでしょう、
(思いついた奴は哲学やってたんじゃないかな)
■哲学界の巨人キルケゴールの名著『死に至る病』
(大学の一般教養『哲学』で出てきた人だけど、1mmも覚えてないわww)
wikiから引用すると内容は以下のような書籍
題名の「死に至る病」とは新約聖書『ヨハネによる福音書』第11章4節から引用されているイエス・キリストが、病気で死んだ友人ラザロを蘇生させた際に「この病は死に至らず」と述べたことに由来し、即ち絶望を意味する。そのためここで扱われる絶望の意味は日常的に使われるものと大きく異なる。
本書でキェルケゴールは、死に至らない病が希望に繋がる事に対して死に至る病は絶望であると述べ、絶望とは自己の喪失であるとも述べている。しかし、この自己の喪失は自己のみならず神との関係を喪失した事となり、絶望は罪であるとしている。そして人間は真のキリスト教徒ではない限り、自分自身が絶望について意識している、していないに関わらず実は人間は絶望しているのだと説いている。
その絶望は、本来の自己の姿を知らない無自覚の状態から始まり、更に絶望が深まると「真に自己」であろうとするか否かと言った自覚的な絶望に至る。絶望が絶望を呼び、むしろ絶望の深化が「真の自己」に至る道であるとしている。
「パスカルの賭けに似た話だよ。」
キルケゴールはそこで宗教の重要性を説いているんだけどさ(そこは妹の病気の件で熱心な奇跡の信者だったパスカルと同じ)、当時の社会における『宗教』の意味と(当時最強のエンタメであり”快感代謝”の殿堂《性を司る神》)、近現代における『実存主義』(神の概念に「不条理」を代入した)など組み合わせると、「現代社会ではこういう意味だな」って解釈ができる。
冒頭のところは、
●『共同幻想』を信じれば(インセンティブの分配もあるし)葬式も出してやるから心配するな
中段のところは、
●『共同幻想』社会に適応できなければ(インセンティブを奪われるだけでなく人権を喪失)絶望しかないぞ、適応するものには『共同幻想』”適応人格”という「自分」を与えよう
末尾は
●自己を喪失し(生者として当事者ですらない)、強迫的になればなるほど”快感代謝”のルートを失い「死に至る病(退屈したら死ぬ病)」に落ちる。
(ま、キルケゴールは「そこで悔い改めて真なる信仰を得る」みたいなことなってるが)
↑
現代的に置き換えると、
●「”社会適応”原罪の時代が終焉し」→歩留り達は(『縁談』も異性の斡旋も受けられず)「さて、俺達どうすっかな」と迷うだろうが(『非婚・晩婚』時代)
●『共同幻想』”適応人格”などという全体主義で半ば洗脳され与えられる自分など自分である筈も無く、まず「自分の時間を大事にする」ことから、個性化を目指していくのだが、
●試行錯誤を続ける自己の選択そのものが、「自分の姿」である。
「試行錯誤を続ける自己の選択」により、退屈している暇も無し。
→続きを読む