これは俺の若い時代、「昭和」ではタダで音楽が聴けるなんて環境が望むべくも無く、多数のバンドに詳しい=お金持ちだけという時代背景もある。極論課金無しに聴ける音楽など大手レーベルの息がかかった歌謡曲をFMラジオでぐらいの話で、なけなしの金で何を聴くのか?当時はその選択は割と真剣なものだったのだよ。
現代の若い人は知らないと思うけど、たまに余った資金ある時には(当然知識も無いままに)ギャンブルでレコードを買うこともある→ジャケ買いという奴だ。
当時の「限られた資金」って部分は
現代では「限られた自分の時間」という選択性に切り替わったと思う。
単純に「生涯に聴ける音楽の総量が限られている」という理解の事です。
タダで音楽聴けることは夢のようだけれど(その可能性求めて音楽好きはライブハウスやレコード屋でバイトするなんて現実も存在した)、
現代の選択性は「金の縛りでは無く、自分の命の縛り」となったので、これってさどう考えたらいんだろね、「選択の自由度は増えたが真迫性増した」と思わない?
※「昭和」のあの頃は好きな音楽探すにも金がかかって大変だったなんて話はさ、八百長とまでいかないが「仕組まれたゲーム性」のような部分もあった(少々中途半端でも自慢げに語れたものさ)。
■日本のポップス・ロックシーンにおいても似た背景があってさ、
旧世代は(バンドやるとか金持ちばかりじゃないから)若い頃参考に聴けてる音楽が限られているワケで、この浅薄な知識を元に「白人コスプレのパクリ音楽《センスのある奴はオマージュやパロディー》」みたいなんやるだけで狭い日本の市場では十分エンタメとして成立したんだよね。
「ほんとだ、エリック・クラプトンみたい」←これが褒め言葉として通用したんだわww
(「クラプトン風だね」とは、そのニュアンスは全く異なる)
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