■『共同幻想』論としての言葉は「多くの含意や暗韻を含み、『共同幻想』適応とは<所詮”適応”なので鵜呑みだが>習俗全体の中でその用法を習得している」となります。
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■たとえばね「言った言わないの話」ってありますよね、
実はこの話、トンチンカンなぐらい矛盾してるんです。
どういうことかってさ、考えるまでも無いのだけれど
指示ミスみたいな話は例外として(そら言った言わないは責任論になるけど)、
「言った言わないの話」の典型例は違いますよね。
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「何々をするのは常識的におかしいと言いましたよね」
「いいえ、言って無いというか僕はそんな事言いませんよ?《私にはそんな常識無いし》」
「いいました。確かに聞いたんです」
「だったら聞き間違いだろ。あのさ、その当事者が今目の前で違うも何も私にはそういう考えが無いと言ってるんだが。あなたの脳内の誰を私と混同してるのか知りませんが、目の前に本人がいるんですよ?(一体誰に向かって話してるつもりなの?)」
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●一応は「あなたは嘘つきだ」という(指示ミス例外的)イチャモンにはなるんだけれど、
■こと、”考え”がテーマになると嘘も何もその都度論理性が全てで、「前は違うことを言った」とか意味無いし、反論にもならない上に「会話として成立しない」じゃん(笑
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■若干わかり難い話になってくるけど、
ロボットじゃないんだからさ「言われた」って何?って話。
(どうして受動系になるんだ?論議の話だから一方通行になったら変でしょ。)
何故だか、表面的な文字面で攻撃されたかのような理解になってるのさ(命令されたみたいに)。
いやいや誰かの意見は個別に誰かの意見で、どんな考えを持っていても自由だろ、、、
(《前回記事で紹介した》勉強のように絶対分数の割り算をそのまま理解しなければいけないとかの話でも無い。)
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●これがサイドバーにも解説コンテンツのある『被る(こうむる)』って心理です
「自分と違う考えは全て私が攻撃されたことになり、私は被害者である」
そうなっちまうのは自立性が無いから(簡単に言っちまえば「子供が大人に言われた」という構図)
端的に言えば、この人物は自分の考えと違う意見に接する度に「上から叱られたように感じる」という事です。=「論議を前提とするような会話が成立しない」
(この現象をコミュニケ―ション障害と言えば、全然構造が違う事がわかると思う)
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■上記を前提に、謎の「言った言わないの話」が起きるんです。
(この矛盾劇は、存外どこにでも起きていると思います)
た と え ば
命題:嫌だってのに、無理やり遊園地に連れていかれてジェットコースターに並んだとする
ハイ、その場で
「こんなに並ぶのなら、ジェットコースターやめればよかった」
「何言ってんのさ、お前が乗りたい言ったんだろ」
「言って無いから」
(どうですかみなさん、こういうのどこにでもあると思いませんか?てか皆さんにも経験あるでしょ。「勿論後者のジェットコースターに特別乗りたかったとか無い」が正解です)
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■何故上記の心理になるのかと言えば、
前者の人物が「そもそも嫌々遊園地にきているから」です(受動系ですね?)
この段階で(もう嫌々なので)どのアトラクションに乗るのか全然興味など無く(論議する気はなく、お好きにどうぞと相手のいいなりでいいと思っている)、真剣に相談して決める意思もないしめんどくさいので”連れが無意識にアレいいね”とか言った程度の発言に反射して(ハイ、命令、ワカリマシタから別になんでもいいよと)「じゃジェットコースター乗ろうか」となってんです。
つまり乗り気じゃない話に追随している時、
人の心理は誰でもこの矛盾した「言った言わないの話」をやらかします。
・乗り気じゃない話に追随している時
・主体的に何も『抗う(あらがう)』ことなく、乗り気じゃない話に追随している時
=主体性の欠如(最初から嫌なら嫌と言えっての、それができずに仕方なくやるってなら、自分の考えデッチ上げても主体性を担保して実行しろ」→でないと『被る(こうむる)』に堕ちる)
※さて「この、乗り気じゃない話に追随」の事案が「結婚」だったらどうします皆さん(事あるごとに荒れる荒れる、荒れ続ける、、、)
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タグ:強迫心理