夏草や 兵どもが 夢の跡
(by.松尾芭蕉)
吉原花魁道中などでは、その豪華絢爛の衣装から
「首から上で家一軒」なんてのもあります
(勿論四文字熟語なんてのもそうでしょう)
■この話はむしろ『共同幻想』論になります
少し補足すると、左翼リベラルな”意識高い系”を揶揄する時に「聞いたことも無い横文字ばかり使って、自分が頭いいと思ってるだろ」なんてのがありますが。
暗号含みの伝統言語用法と横文字←何が違うんでしょう?
言えば横文字本国では同様に(言語ってのはそもそも『共同幻想』なのだから)含意や暗韻含む用法ってのがある筈なので、横文字表音文字が味気ないって意味では無いと思います。
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では何か?
言うまでも無く、インテリ気取りが使用する横文字は「どうせ辞書に書いてある1、2行目でしか意味を知らない言葉だろ(含意や暗韻は代々その国に暮すネイティブにしかわからない)」ということを揶揄しているんです(母国でもない癖にってな感じ)。
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■ここから逆説的に『共同幻想』論としての言葉は「多くの含意や暗韻を含み、『共同幻想』適応とは<所詮”適応”なので鵜呑みだが>習俗全体の中でその用法を習得している」となります。
時に、文学や論壇で保守系論者が英米文学や古語や母国文学者だったりすることありますが、正にそれは自然現象です(言語を学ぶことはある意味保守的作法だからです)。
ですから”適応者”の使用する言葉ほど多くの含意や暗韻をもっており(当人は適応鵜呑みでそれが何かまで説明できないので「空気、雰囲気」みたいな感覚だが)、文字面だけ追っても心情は理解できないのです
【極論「言葉が通じるだけでは意味までわからない」《てか彼らも無意識なので説明できない》】。
保守系が移民政策に反対するのもそこ被っており、適応者同士は無意識に暗号的やりとりができるってものだが【阿吽の呼吸】、いくら日本語話せますって言っても異人さんの理解はチゲーだろってな具合。
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あれ、どこかに類似の話を聞いたことありませんか?
「ナントカ障害」の通俗的理解に「適応者のように1のことを聞いて10を理解することができない」
(俗に言う「空気が読めない」)ってのありますね。
論理的には同じ意味です(言語は暗号であり用法や文脈の中で含意や暗韻を伝えている)。
●これは何も致命的な話ではなくて、冒頭松尾芭蕉の句を読んで「字面だけ理解すれば十分なこと」と思う人は滅多にいませんね。
単純な話、適応者の使用する言語には常に言外の意味があり、忖度と言っては何ですが研究理解する認識があれば、それを連発で誤解することは無いからです(ざっくり言えば『共同幻想』論を理解すればよい)。
むしろナントカ障害俗説に被る部分は”学習障害系の話”だと思います。
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ここは脳科学者の養老氏が面白い説明をしていて、
「わからない人にこうだからと説明しても、それは倫理的に受け入れられない」ってのあります。
(分数の割り算が理解できない場合なんかの話しだったと思います。)
心理学で言えば、アンナ・フロイトの提唱した「自我防衛論」のことです。
それが勘違いだとしても、その理解や物語設定がアイデンティティーを構成する論理に被ってる場合(分数で割るって何だそれ?いかがわしいインチキなんじゃネーかのように)、いかにその説明が合理的なものでも”倫理的反発”により拒絶される。
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タグ:強迫心理