<専門外だしトンデモ論も出てくるので、念のためカテゴリは『単独者』の雑感にしといた>
時々「犯罪のボーダーを超えることは”そりゃもう異次元の自己決定”」と説明することがあるが、そのイメージは”昭和における単身片道切符で渡米した”などの(現代風に言えば”異世界”)決断であり、それほど近代以降の”法治社会”の社会的枠組みなり告知の意味は大きい。
※ここで言う”意味は大きい”ってのは普遍的『共同幻想』級に誰でも知ってる(個人を超えた公的)上位概念であるってことです。→最高刑が死刑ですから(欧米の一部はそのタガを外したが)「死を決して(そのリスクを知って)選んでいる」のであり(つまり行為として犯罪を選択している段階で責任能力は認定可能【刑法39条非成立論】←精神耗弱状態などが本当にあるなら、日常茶飯事ランダムに犯罪行為や善行など説明のつかない日常が恒常的に存在することを説明する必要がある)、 ↓
見方を変えれば、現世において”異世界の住人”であることを選択する行為に等しい
■さてこの場合、「現世において”異世界人”であることを選択」とは何か?
ある意味、原初的な動物としての人類ヒト科のパフォーマンスを限定解除していることになる。
※大事な事だが、それを人類ヒト科の本性と言うのは間違い(象徴的にそれっぽく表現することはあるけれど、多くがこれを自我で”選択外”とするもので:自我の存在も人類ヒト科の野生なのだから)特定条件下で起きる固有の習性と理解するのが自然。
(つまり殺人の《道徳では無くて》”法的用語における悪性”を証明するのであれば、それは「殺人事例の個別各論ではなく、それよりずっと前の犯罪のボーダー越えなどの自己決定の部分」に在る。)
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まだるっこしいことを言っているが、
近代以前の異教徒狩り拷問や市民によるショー化されたリンチ殺人から、村八分などの組織的殺人から。戦乱、戦争、決闘、原型としての暴力まで、社会的背景が違っていた中世社会などでは、それが横行しており(我々の先祖は残酷な殺人者でもあったとまー言おうと思えば言える)、
限定解除すると、人類ヒト科は【やるワケです《それがやれる珍しい動物》】
※見方を変えれば、死刑による法治国家とは、合法的殺人という上位概念(公的概念)を設定し個人の選択からはそれを外しているが、死刑のある日本国民が殺人者であるのは間接的であるにしても事実だ(=故に、社会的法の概念を支持することで、個としての自らの殺人選択を放棄してるワケ《合法的市民を選択しとると言えばいいスかね》)。法の執行は警察官の主観ではないですから、
もうちょっと突っ込んで言えば、”愛国心”と殺人の放棄は重なるの《法は国家に帰属するからです》。←他国と戦争になる場合概念が変わる理由も説明できてるでしょ。
●忌まわしい殺人事件の裁判でのやりとりや、死刑囚などのインタビューを読むと
「驚くほど普通の人とそう違わない内面や自我を持っていることにまず驚く」
(冒頭の犯罪のボーダーどころでは無く、そこを超えた異世界では驚くほど殺人選択のハードルは低く、極論さして何かを意識するでなしに”できちゃう”んだよ。殺人が、「それほど違和感も無く」→収監後や判決後の贖罪などは、逮捕され裁判受けて初めて「そう言えば犯罪のボーダー超えたな」を自覚し、収監されることで《自分も法治国家と再契約したことになるため=法律に従ってるんですから》、後から「トンデモナイことをした」と他人事のように証言している。)
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