『共同幻想』社会における友人は”友人では無い”(”適応者”社会の名誉のために言い換えると「論理的に個人的友人とはならない」になるのかな)
https://kagewari.seesaa.net/article/500327458.html
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非適応系個性派(プライバシー領域拡大)を基本とする現代の「最低でも歩留り以上階層」では、<中略>
「友人と呼んでいいかどうかわからないが(友人という単語に『共同幻想』用語的響きがあるから当て込み難いのさ)付き合いのある友人などより親しみのある知人はいる」ということになるのさ(前述の非公式関係と同じなので)頻繁に付き合いがあることは”無いけども”(極論交友が無くてもよい《最強なのは”たまに見かけるだけで和む”》)。
「最強なのは”たまに見かけるだけで和む”」とかって話を補足してみよう、
いったいこれは何なのか?(笑
■正体バレバレの奴ってことだよ(裏が無い)
『単独者』に限らず、歩留り系でも個性化率が高くなれば(それは趣味だったり哲学だったり様々だけれど”主体的選択分岐が多数の人”)「見たまま変わった人だよね」とわかるもので(勿論個性化志向の社会では”変わってる”は褒め言葉になる)、いるだけで希少価値が実存するし、仮にその(哲学って言うと堅苦しくなるから)フィロソフィーに賛同できるところがあると、(親しいとかなくても)親しみを感じるわけだよ。←「あー、わかるわかる、そういう方向頑張ってるんだね」って(親しいというか応援したくなるというか)、←だから同現象は著名人や有名人から歴史的人物への好感と類似していて(現代オタク向けに言えば「推しメン」心理に近いとこあるかな、、《厳密に言えば違うんだけどさ》)
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そして”その存在感(実存)”は、下手な友人を上回るので
仮に身近にそんな人いたら、
(それをどう説明したらいいのかって)たまに見かけるだけで和む”よねって感じかなとww
●つまりこの現象は、
「(哲学って言うと堅苦しくなるから)フィロソフィーに賛同できるところがある場合」だから
先方が個性派なのはマストとして、
こっちもその好感選択が可能な個性化に至っていないと認識できない。
(さらに、”概ねだけど”その人がその人に好感持っていることは周囲にはわからない《プライバシーが社会的に共有されたら、プライバシーじゃないだろww》→相手にも直接伝えないとわからない《だから恋愛論における「愛するという概念はあっても、愛されるという受動系の概念は根本から成立しないのだよ」》)
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