ともだちの概念にこれってのあるワケではないので説明難しいところあるが、
(米国などでソウルメイト《soul mate》って言葉が別途あるように《日本の親友との違いは微妙にワカラナイが》、友人と社交性の境界は曖昧だ。)
『共同幻想』社会の場合、”合わせることや共有することを目的化した”「適応人格」なる(昔の言葉で言うと”外面や外面や対面だ”)意図された作為的な人格に寄せる(乃至置き換える)状況にあるワケで、その人物像状態の交友は「社会適応を仕事の延長として捉えるならば」そら文字通りの意味の友人では無いことは説明の必要すら無いと思う。
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【幅を広げるとわかりやすい】
懇意の取引先の社長に媚びへつらってる営業マンが、その社長を友達と思うか?ってまああり得ないワケだが、→どうだろうDQN系で知られる”ママ友”社会などにおいて類似した関係が無いと言えるだろうか?(ママ友幼児虐待殺人事件は極端にしても)名称が”ママ友達”などという皮肉になっているが、一般論としても「面倒な主婦同士の付き合い」の俗称でしょ。
※”適応者”社会の名誉のためにあえて付け加えると「彼らの社会でも個人的友人」というのは非公式というか(或いは付き合いのある仲間に伝える事のない)、この表現もどうかと思うけれど”アンダーグラウンドには存在する”(ドラマなどのシナリオで言うとさ、”イジメ”の対象になる前の人物と実は非公式に親しかったのに”イジメ発動”で対応が180度変わるとかあるでしょ)。全員とかいうことではないけれど、”適応者”の多くも『共同幻想』を妄信しているのでは無く、体感的には「漠然と正しいとか無難という判断で”適応”しているだけ」なので、【ここ重要だけれどさ】仲間から外れたところにある”非適応系”個人は気が楽になるというか(風呂とトイレの中と同じに)仲間に言えないことも言えたりするからだ(カウンセラーみたいなものさ)。←この様子を特別親しいとは言わないかも知れないが、体感される”友人感”は(話せる”非適応系”個人の方が)付き合いの頻繁な仲間友人より高くなる。
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※「風呂とトイレの中」ってのは=「”適応者”にとってのプライバシー」を比喩したものだから、
非適応系個性派(プライバシー領域拡大)を基本とする現代の「最低でも歩留り以上階層」では、上記のような(頻繁に付き合いがあるわけではないため見た目は特別親しいという雰囲気はないかもしれないが)個人的友人(友人と呼ぶのがどうかといえば知人)この接点は増大するワケで(規約統計では休日も友人と出かけることは無い多数だが←そこと矛盾しないのわかる?)、「友人と呼んでいいかどうかわからないが(友人という単語に『共同幻想』用語的響きがあるから当て込み難いのさ)付き合いのある友人などより親しみのある知人はいる」ということになるのさ(前述の非公式関係と同じなので)頻繁に付き合いがあることは”無いけども”(極論交友が無くてもよい《最強なのは”たまに見かけるだけで和む”》)。
でだ、勤務先社員にしても、大学時代のサークルにしても、出先ですから(稀に知古の友人がそこにいるからってのも無いではないと思うが、、それも何か違うと思うだろ?)広い意味では「取引相手の社長」と被るところあるのであって、
●この『共同幻想』適応系の友人関係の特徴に「イベントありき」ってのがある
■ブログ記事リクコンテンツをお読みの方はピンときたと思うけど
何故”現代風に言えば”DQN社会コンプレックスな人の目に”適応者の友人達が遊び歩いているように見えるのか?”←「遊び友達(遊び目的の友達)」に代表されるように、インセンティブの鍵は「イベント性や飲酒や食事など」交友関係では”無く”、私利私欲であって(それを共有する仕組みで《共犯関係的に》友人っぽさが演出される)
→近代の『共同幻想』倫理を前提にすれば一目瞭然。
当時は仲間同士や上位者の許可なく飲酒やイベントを行うことは許されていなかった。
【単独行動で禁止されてますから、飲みたい人は参加するように】←この設定で”飲み会”へ誘導していたワケ(日本の村社会にに限らず欧米教会権力も同じ)。
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●繰り返すが、結果便宜的に集められた人員を相手に
「ハイ、オマエラ何々会の仲間同士な、みんな同じ酒を飲んだからにはもう友達だよね〜」←という囲い込みをしたもので、
【現代的に言えば婚活サイトのオフ会で集まってイベントやってる様】みたいなものさ、
(彼らは元々友人で仲がいいから集まりったり恥ずかしい遊興イベントに参加しているのでは”無い”)
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