前回までは主として”悪い事”の導入話がメインでしたが、
「さて”いいこと”の方はどうでしょう」って”基本構造は同じ”だよ。
言うならば悪い事ってのはガツンと衝撃的にたしなめられるなど(無難な表現で言えば)不快な『興奮』体験がエピソードフラグとなり、刷り込まれるなり構造として刻まれるよね。
いえば、その反対なので
”いいこと”は快感の『興奮』で刻まれることになります。
(流石に私も記憶の彼方ですが、子供時代にも褒められるなりで”フワ―っと気持ちよくなる”ってあるでしょ《たぶんドーパミンなり出てる》)
実際母子関係の多くは、入浴時子供が身体洗ってもらうだとか(サルのグルーミングと同じだよね)、頭を撫でると気持ちよさそうにするのはネコも同じです。
或いは「褒美に甘いおやつがもらえる《ドーパミン関連》」とかな、
子供の性感というと(保守派が怒鳴り込んできそうだが)全く無いのかって、そういう意味なら子供なりにあるんだよ(だからフロイト幼児の性欲論も全ては否定しない《原則”生存欲”だと思うけどね》)。子供なりの”性愛代謝”が快感の『興奮』として存在するのも事実。
●「気持ちいいことしてくれる事項がある」←【まず先にこのコアができる】
(人の自我は覗けないが、この構造は”悪い事”と表裏一体か同一のものだと推定してる《常にその反対が悪い事になるからだ》)
「具体的に何がいいことになるのか?」(何をしたら気持ちいいことがありそうだと定まるのか)
<前記事コピペ一部編集して引用>
●つまりね、「普遍的道徳など無いの構造上の根拠そのままです」
何が”いいこと”なのかは、後から経験や知見で入ってくるもので(極論”偶然”)、
「何がよくて善行だ」の定義は(群れで生活していれば類似するけど)安全で自由な環境の場合、かなりランダムになります(道徳性も個体差が大きくなるってこと)。
※例外:宗教『共同幻想』文化圏の場合は、”親が伝導役”を兼ねる場合が圧倒的多数であるため、「いい悪い」の定義の戒律的部分は親からガッツリ導入される。←大人になって改宗するなんざことを考えればそのプロセスにエディプス・ハードルに対する『反抗』が必要なこともわかると思う。
<<教育論でさ、「叱るがいいのか、ほめて伸ばすがいいのか」よく論議になるけど>>
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どっちもどっちというか、、同じことなんじゃね?
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