■「道徳系の構造」は(《自分を超える権威を担保とするため》変更や再解釈が容易では無いため)、一歩間違えばむちゃくちゃ誤解や錯覚も起きるだけでなく、その錯覚や誤解が自我構造的に固定化する。
(幼児は基本的に《常に例外はありますが》親に依存しなければ死亡しますので《ひとりで餌を見つけて食べるなど動物としての自立性が能力的に皆無》、幼児特有の根源的不安から親の言動に対して敏感です)
「あら素敵、お宅のお子様ピアノが弾けるのね」←幼児が関心を持てば”いい事の用例に”
「誰子ちゃんが暴れて喧嘩になって相手の誰男君怪我したんですって」「あら〜大変」←強い関心を示し、”悪いことの用例に”
、、、、
などなど周囲を観察などする中で(幼児仲間の言動や”その子の家の伝聞”にインスパイアされることもあるでしょう)、「徐々に何が悪いのか固まっていく」
この用例は割と早期に固まっていくと考えらる。
↑
基本的に親が躾や教育で関係するものが多くなりますから(幼児にとって親は神に等しい生殺与奪権を持つ絶対者)【この用例は、ほぼ最高裁判例も同じ】になります→”三つ子の魂”ですよ
(何故早期に一度固定化するのかって、成長の著しく遅いサルである人類ヒト科は”しばらくの間は子供っぽい自我の子役”みたいなポジションでOKだからです←1年がやたら長く感じる子供側も自分がにわかに大人になるとも思っていない《自分が大人になるとかリアリティが無い》)
■通常この絶対の関連性というか判例は(第二次、第三次もあると解釈すると)
2回の反抗期(小学生年次と、思春期)←ここでメジャーアップデートされますが(権威元の親と対峙する関係で行われないと変更できない《思春期『反抗期』は最後に親の絶対権威は剥奪され、社会性に置き換わる》「管理者権限じゃないと書き換えられないレジストリみたいなもの」)
<<<話は戻りますが、そもそも幼児や年少者の言語能力は?>>>
そら、聞き間違いや、誇張から、勘違いまで山ほど起きるんです。
後の人種偏見だとか、貧乏めぐるなんとやらとか、体形がどうしただの、勉強できるできないだとか、学歴ガーやら、持ち家ガーだとか、スポーツガーや、家の自家用車ワ―とか、、、、ワケわからないコンプレックスの元ネタにもなりますし、
↓
よく耳にする(一派用語でいうところの)マザコン、ファザコンってのの一部は
やたら執着している”いい悪い論”の話の出元が、母親や父親の発言が根拠だったりする場合(本来これは小学生年次に一部、思春期には絶対権威の剥奪で無力化されるべき関連性)、←あれオカシイぞとなるんです。
■【ぶっちゃけていえば、思春期『反抗期』プルーフした大人自我は、親が過去現在含めて何をいったとかに”全く左右されません”《現役での親の権威性は崩壊し、ノスタルジー程度にしか残らないのが自然だからです》】→大人になってまで「親がどうしたこうした言う奴はいない」(自分が成人したらそもそもその人に”親権無い”し《極論:元親=ノスタルジー的属性》)
→続きを読む