飲食店なら”業態”=「喫茶店です」
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■「俺は何者だ?」みたいな置き所にすれば(もの文字発明の当初は近代までのほぼ『共同幻想』しかない時代なので、”伊賀者?”じゃないけど職業やら個別属性の意味だったのだろうけど)、「自分が誰なんだ」って視点は個別性を問われているんだから、
飲食店なら”コンセプト”=「モダンジャスに拘った音のいいJAZZ喫茶です、このツィーターホーンを置いてる店は世界にここしかありません」
一見ミクロとマクロの視点にも思えるけど、言語表現が論議の鍵でもあるので、
「主語の置き所、主として問われている命題」←こっちでしょ(そのカテゴリの中にミクロとマクロもある)、
うんなもんさ、問われている命題が”自分の個別性”なのだとしたら、そら『自意識』でしょ。
(※面白いこと得意な人は「このホクロです」とか答えるかもしれないけどww)
これまた逆説的に言えば、
個別性の主体は『自意識』以外に存在しない(=生命としての自分全体では無いが「そうとしか言えない」機能職責なんだからさ)。
※動物としての人類ヒト科に収斂する部分は「言うまでもなく私も人間ですが」って部分で言わずもがなに終わってる(『自意識』もその一機関として存在しており、その仕事が「我こそはと個別性を明らかにすること」なんだもの)
<さて、この場合>
『共同幻想』適応者とは、「自分は何者かを問わない生き方」であり(どこに所属するのかが存在意義であり、それを証明する生き方)、
『単独者』とは、「自分が何者かを問い続ける生き方」ってことになる。
(まさか未来の先に答えが予めあったら大変なので「《何も決まっていない筈だから》問い続ける」って言葉になる。←この状態を保証するのは”自由”)
ある意味動物の社会性(動機は種の保全と安全保障)を模倣したのが(本能の模倣を言語化すると→『共同幻想』)前者だから、環境が動物に近ければ近いほど(古代になるほど)『共同幻想』論を語ることが「人間とは何か(そこに自分はどう寄与するか)」を語るとっかかりになる。
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反対に動物としての動機「種の保全と安全保障」←ここが憲法で保証されるほどの豊かさを手にした場合(先進国社会)、オートマチックに「個人を語れずに人間を語れない」事になるので(「それもまた人間なんですね、そんな生き方もあるんですね」→大谷君の二刀流じゃないけれど、プロ野球選手という既成概念では彼を語れない→そんな大谷君も人間である)、先進国社会では「君は誰だ」的なことを語ることが人類ヒト科を語る上で欠かせない。
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タグ:自意識