(仰々しいものでも無いので「『自営業』の雑感」ぐらいの意味で読んでくれ、、)
「自我は記憶とそれを整理する論理で構成されている」みたいな話があるじゃん、
即ち、人格構造が個性化分岐で変遷していくとだよ、
無数のエピソード記憶が”エピソード解除”されて、失念してもいい圧縮野に放り込まれてしまうんだわ。「確かに解凍して、そんなこともあったな〜、あったあった」は可能なんだけれど、正確性がよ、、随分怪しくなっていくんだわ
<<<何が言いたいのかって「トラウマ論の解除とは何かって話」>>>
そこで、
■「自我は記憶とそれを整理する論理で構成されている」みたいな話は本当か?
記憶を全てサルベージしたらその人を(AI化作戦)電脳空間に残すことができるみたいな話あるじゃん(実験のためにSNSにあらゆる記憶を残し続けてる科学者もいたと思う)←それこそ魂は記憶でできてるのじゃないかという説。
この辺の仮説は「最近あんまり有力ではなかったりする」んだけどね(免疫系他に脳以外に感情や思考に影響及ぼす機関もあるからね《昔々の魂が心臓に説に近いかもしれない》)、
しかし、記憶が完全に断絶すると(痴呆症など)人物像も変異するのではないかという考えもある(実はこれも異論があって、痴呆症患者の自我喪失は末期状態を例外に「記憶を喪失する不安が原因」という説もある《仮に当該人物が”同調を前提にする適応者である場合、そら余計パニックになるでしょ”》)
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諸説あるのはご理解いただけたと思うが、
決定的では無くても、自我に記憶が何らの影響が無いなどトンチキな論議は皆無だ。
(記憶が全てでは無いが、自我構造に一定以上の影響力があるのも事実といったところか、)
●さてここで「強迫性人格やトラウマ論を考える場合」
特にトラウマ論が顕著だと思うけれど、トラウマとなっている記憶が直接鬱のトリガーとなってる。
つまり、少なくともトラウマ論などという現象を語る場合、記憶がある一面の自我を定義していると言ってもいいだろう(トラウマ記憶とは、”エピソード記憶”の一種である)。
●もうひとつの典型例が”適応者”の「三つ子の魂100まで」である、
躾のプロセスは、悪く言えば”トラウマ論が自我を拘束するのと同じ原理”だ。
当然、躾時代の記憶や関連する事項のロジックを解体すると、当時刷り込まれた慣習や道徳は崩壊する(たとえば時代が求める新しい秩序などに切り替えることもできる《典型例「南北戦争と奴隷制度」》)。
つまり、トラウマ論や鬱がなかなか解決しない背景には、
自我のアイデンティティーと言えば極端だが、「この事項に悩む自分が、自分そのものである」という錯覚が派生してしまうためではないだろうか(躾けと三つ子の魂のように)。
<以降は仮説だが>
■少なくとも(最低でも歩留まり階層オルタナ派は日常的に)個性化ルートで人格は変遷していくのだから、トラウマ論に対して一定の耐性を持っていると言えるのかも知れない。
半面、同じトラウマ論でもガチの『共同幻想』”適応者”の場合は、非常に強固な鬱的人格状況に陥る可能性がある。
これに対し、強迫性人格の素性は基本的に「本来は最低でも歩留まり系人格」なのだから(でなければ強迫心理では無く、非常に偏向した”適応者”となるだけで”不快な症状は発生しないことになる”《強迫性人格は「不快という”自分の意見”を確実に持っている人格だからだ」》)、
その「強迫心理」のネタバレ解放の後に”関連する記憶も薄れていく”人格タイプと言えるだろう。
(※痛ましい事件などに巻き込まれた『共同幻想』”適応者”の事例のが状態としては深刻になるのではないか?という話)