『共同幻想』の合理性は庶民が生きるのに食うや食わずの状況で、
誰か選抜して考える専門を置こうぜって(どこだって宗教は寄付や寄進で運営だから《手広く奴隷貿易やってた某宗教は例外》)、役割分担であって、自動的に群体としての生命論になるワケ(日本で言えば天皇機関説)。
これを俗に言う「偉い人の考えに従う」って方式。
なんつったって古代の庶民は文字も読めないのだから、文字の読める学識はそれだけで偉人になる(外国の珍しい書物となれば尚更だったろう)。
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この合理性フレームが『共同幻想』の基本構造なので、
国が豊かになって、学卒が過半数超えるなんてことなればあーた、自然に崩壊するんです。
「何が俺にとっての普通なのか、それは俺が考えることだ」←に転じる
(それは考える能力と時間があるからですよね《だから週休二日制も『共同幻想』崩壊の端緒》)
■さてこのブログに頻繁に登場する千利休さんですが、
<ちなみにワビサビってのは>
google辞書的には
「侘び」とはつつましく、質素なものにこそ趣があると感じる心のこと。 一方、「寂び」とは時間の経過によって表れる美しさを指します。 この世のものは時が経つにつれ汚れたり、欠けたりして変化しますが、それを劣化と否定的にとらえず、変化が織りなす多様な美しさを「寂び」と呼び、肯定するのです。
wiki的には
わび・さび(侘《び》・寂《び》)は、日本の美意識の1つ。貧困と孤独のなかに心の充足をみいだそうとする意識。閑寂ななかに、奥深いものや豊かなものがおのずと感じられる美しさをいう。美学の領域では、狭義に用いられて「美的性格」を規定する概念とみる場合と、広義に用いられて「理想概念」とみる場合とに大別されることもあるが、一般的に、陰性、質素で静かなものを基調とする。本来は侘(わび)と寂(さび)は別の意味だが、現代ではひとまとめにして語られることが多い。人の世の儚(はか)なさ、無常であることを美しいと感じる美意識であり、悟りの概念に近い、日本文化の中心思想であると云われている。
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そのまんま”侘しい寂しい”だから【これを”快感代謝”のエンタメに逆転させるワケだ】
《子供が個室をもらった時の解放感みたいなものか》←『単独者』の基本原則もたいして変わらんよ
●これを可能にするのは「圧倒的知見」だよね、
あんたさ、やってることはお湯沸かしてお茶飲んでるだけだからな。
(机に向かって絵を描いてるだけで漫画家になる奴もいる)
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つまり、これを知見豊かな人は無意識に「珈琲飲むときや、風呂入る時や、ご飯食べる時に何気に体感もし、外からはそうとわからない無限のエンタメが成立しとるってことよ」。
(プロ野球界の偉人落合曰く打撃技術最大の練習は「部屋を真っ暗にしての素振り」だぜ《彼のことだから全裸の可能性もある》←《知見=》その意味がわかっていなけりゃ、何に比べてもつまらない反復作業じゃん《シューシュポスの神話かって》)
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