これ「投影」のことだよね。
(哲学の鏡像論なんてのもあれこれあるようだが)
素朴に言うとさ、自分ってものは(ロボット漫画の操縦者みたいなもので)「運転席からの景色」としてしかわからない(自分の手足も視界には入るけどさw)。
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現実世界の認知ってのは、自分が主人公というより「目の前に展開しているドラマを観る視聴者」の趣のが強かったりする。
そりゃさ、口座残高調べたり、目の前の食い物について感想述べたり”没入感”あるのは確かだけれど、ゲームやってる感覚と大差ないって言うと語弊あるかな(でもそれに近いものだったりするでしょ)、自分をプレーヤーとして客観視することはなかなか難しい。
そこで、ドラマにおける「感情移入」や、プロスポーツにおけるチームやプレーヤーのファンとして勝敗に一喜一憂する様は「あたかも自分がそこに参加しているような」投入→投影があっての”快感代謝”だよね。ベタなところからプロ野球の贔屓チームの構造を見て見よう。
・マスメディアのプロパガンダ(典型例が昭和の巨人人気)
《これは陰謀論でも何でもなく歴史的事実として占領軍が指示したもの》
・阪神タイガースに代表されるような地域性(地縁『共同幻想』ゲマインシャフト)
・Jリーグを参考に、古田のプロ野球選手会主導改革以降の地域性の拡大(福岡ホークスであり、北海道ハムであり、東北イーグルス《地縁細分化》)←これは高校野球の応援ベースを考えれば誰でもわかることで、広範に共有されやすいという意味で『共同幻想』の構造を考えた場合(地域性は一概に幻想とは言えないが)”地元チーム”というフラグは、自己を「投影」しやすい条件のひとつになる。
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コンテンツとしての魅力ってのは、投影の利便性って表現はどうかと思うけどw
こんな風に楽しんでくださいねって部分がわかりやすいほど大衆性にも繋がる。
(”こんな風に楽しんでくださいね”←明らかな”普遍性っぽい『共同幻想』”になってるでしょ《日本代表に典型的だけど、母国語や国籍などに代表される仮想普遍性=そこまでネタバレする必然性の無い幻想のこと》)
■昭和のプロ野球人気が急速に衰退したのは、
Jリーグの登場もあるけれど、メディアのあからさまなプロパガンダが酷すぎて、逆に『共同幻想』をネタバレ崩壊させたとも言える。
古田が戦った読売ナベツネの1リーグ構想ってのは古くは戦後日本がGHQに命じられた八百長プロ野球人気など(当時の話で言えば力道山のプロレスも同じである)、とっくの昔に戦後日本といっしょに終わったのだから(ナベツネもいつまでフィクサー気取りだよって)、”ベタな地域性”のオーソドックスなモデルに再構築しようとしたもので、
加えて、Jリーグに続きバスケやバレーもプロ化する中で「昭和のような人気では無いからこそ」→どこかのプロ野球チームを応援することに(幾分かの個性化が機能し)「投影」の利便性が高まった。
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タグ:『共同幻想』