前回論議のここ
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単純なアイデンティティーの話、
「山田太郎の今」→「山田太郎の生涯」→「山田家の太郎さんの今」→「山田家の太郎さんの生涯」→「日本人である山田家の太郎の今と生涯」(日本人論になる)→「人間、そして日本人である山田家の太郎の今と生涯」(人間論になる)→「人類ヒト科人間、日本人である山田家の太郎の今と生涯」(生物学的人類ヒト科論になる)
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個別各論寄りのどこかのフェーズに異様に拘るとさ(どうしてその設定に固定されるのか仮説を明示しなければならない上に)、どうしたって「木を見て森を見ず」の偏向になるじゃんよ。
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■この論議が個性化と矛盾するのではないかという話ね
(前回そこをサラっと、個性化はプライバシーの話だからと説明しているが)
「全てサルベージすると人の人生にたいした違いはない」ってのは、所詮人類ヒト科に過ぎない=マクロやグロスで考えると誰でも「生物学的人類ヒト科論になる」ってのは、タバコ屋の話でたとえたように、個別にどういう事情があるとか日本のタバコ業界には関係が無いって事さ。
うんで、アイデンティティーの話でいえばそのタバコ屋も日本タバコ業界所属でしょ。
●属性としてどうかって話(所属としてのアイデンティティー:ID身元証明だものさ)
アイデンティティーには主体性みたいな意味もあるが(どちらか言えば所属じゃないか?)、
前回記事の最後に書いたように、個性化の違いって前述の「人の人生における違い(比較)」ではないでしょ。自分だけわかってりゃよくて(比較の必要が無い)他人に説明する必要も無い(証明するような身元の話では無い)、そういう違いのことが個性の本質で「誰の目にも珍しい車買ったから個性的」とかそういうベタな話じゃネーぞ(笑
間違ってもそういう話じゃ無いので間違わないように。
説明する必要も無いので「それも人生だ」に包含されるじゃん(別にその個性が見える場所になくてもよい《末尾に書いたけど逆に見える方が個性に矛盾する》)。
個性化したから「今日から俺はアンチ人間!」とかなるワケがないってか無理だろ(jojoのディオじゃ無いんだから)。
■個性化を説明する上でのポイントのひとつかな、
「その違いを自分だけわかってりゃよくて(比較の必要が無い)他人に説明する必要も無い(証明するような身元の話では無い)」
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