●これも誤解招くとあれなんだけどさ、殺人事件まで引き起こした戸塚ヨットスクール的な(海兵隊みたいな)スパルタが一定の効果あるのは事実なのさ。理由は簡単で近代まではナントカ障害みたいな論議は無くて、社会が豊かになって親子関係などがぬるくなってから激増するのね。
しかし体罰が効果あると錯覚されると大間違いで、
体罰の有効性は権威の有効性で決まるので(キリスト教の信者では無い人物が十字架で殴ってもギャグでしかない)、時代変遷そのものなワケ。
近代までは、気の多い子供に対しても「権威の重みは伝わっていて(=社会的公的概念=個人的領域の縮小)」同時にその公的権威を心から支持してる親の激怒は意味が違ってくるのさ。
時々ここのブログで映画『フルメタルジャケット』におけるハートマン軍曹紹介するけど、
あれが軍で許されてたのは、「ベトナムに本当の殺し合いに行くから」だよね。
(ブログ本稿で書いた「自然界ならそういう児童は捕食獣に食われるぞ」←ここと同じ)
近代の公的権威や欧米における『宗教』的戒律が権威性を維持していたのも、
【マジの危機感が共有されていたから】です(仮想上その時には『共同幻想』における危機感についての普遍性が有効となる)
↓
たとえばね、あなたが
「ガスの元栓開放して、マッチで遊ぼうとしている子供みたらどうする?」
激怒にも似た大声で「やめなさい!」絶叫するでしょ。
(叱られた子供が「何だこの野郎」とか反論することも考え難い)
●近代までの親の体罰ってほとんどそれに近いものだったワケ
ほぼほぼ全ての体罰の根拠が「死んだらどうするの」の意味が背景に付与されていた。
(しかも日本なら戦国、欧米なら中世まで子供の約半数は大人になれずに死亡します《医療が発達するまでそんぐらい死んだの》)
↑
勿論その危機感はなんとなく(ガキだって生物だからさ)子供にも共有されていたので《生きている筈の兄弟が何人か死んでいることを確実に耳にしていた》、
(根拠のある体罰って言うと語弊あるけど)厳しい関係性が集落全体の存亡に関わるものだったので(言えば生命線だよ)洒落にならない”同調圧力”となった(場合によっては殺害してもよい)。
だから、近代までの親の体罰には子供の怪我に及ぶようなものも多数あった。
※現代に置き換えりゃさ、極端な話「近代までの親は全員犯罪者だった」ワケだ(これも誤解招くとあれだけど当時はそれが公的権威を尊重することを意味していたのさ《生存するために人権もクソもそういう贅沢が通用しない時代》)
<で、話をも戻すけどさ>
※「危機から責任者が子供などを守る秩序を定める時代が終わり」→”自己責任”の世俗化へ変遷
たとえばね、あなたが
「ボール遊び禁止の公園で子供がキャッチボールして遊んでるのみたらどうする?」
(だいたいが、まあ厳しい事言わんとこ、怪我の無いように祈っとこ程度だよね)
(仮に余計なこと言えば、調子こいたガキが「何だこの野郎」言い返す確率も大)
しかし、こういう人もいるよね?
「やめなさい!(速攻通報、効果が無いと役所に怒鳴り込む)」
そういう関係で、公園が閉鎖云々って話も耳にするじゃん。
↑
病的なのはどっちかと思うじゃんよ。
しかし禁止なのにスケボーとかでうるさいガキは?
今度は難しい問題になってくるよね、
(ご近所的にはふわ〜っと広域に「死ねばいいのに」が共有される)
社会的にさ、そういうグレーゾーンが広がってるのは豊かになった証拠で、
何でもかんでも近代みたいに【秩序の回復で】って時代でも無い(危機感などの根拠となる「権威性の共有が無い体罰は単なる暴力」でしかない《何もインストールされず人権侵害となるだけ》)、
どうしたらいいって、答えは簡単にみつからない。
近代までの保守派ならひっくりかえりそうな「スケボー場を作りましょう」なんて解決策も出てくるのが現代だからさ、
●「対人関係」って何だろと問われて、即答できる人も少ないと思うんだわ。
※しかし、近代までのそれは「一発で上下関係です」だったのね。
↑
この両者が、同じ閉鎖空間に監禁されるとさ(だから本来開放が原則なのね《大型汎用メインフレームによるイントラネットからインターネットへスタンドアローンな個体が任意に接続する社会へ》)、
必要性の無い争いが必然的に発生するよね(それこそ混ぜるな危険)
「閉鎖空間に監禁すること(対人関係の強制)自体が問題」なんだわ、
なのでリモートワークを禁止した点だけは、イーロン・マスクの最近の動きを支持できない。
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