そら始まりが経済学用語なのか知らんのですが(ミクロ分析とマクロ分析)
戦略とか戦術論の話になりますから、戦争にたとえて説明しましょう。
ミクロ「自分の銃の残り弾倉数が2本(60発しかない)」
マクロ「我が軍の兵站補給において弾薬食糧の供給ルートは〇〇攻防戦にかかっている」
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同じ戦場の場面ですが、ミクロの話はマクロの全体像に直接関係ありませんね?
また、逆も同じです。
しかし、これが個人の立ち振る舞いにおける戦略や戦術論になれば「マクロの勝利が最優先ですよね」(野球の試合で言えば、誰か特定の選手がホームラン打ってもチームが負ければ無価値である)
このミクロの論議が心理学というかとりわけこのサイトが重要視している「個別各論には意味が無い」(岸田心理学的には”結果論には意味が無い”→暴論で言えば”どうでもよくないことなどこの世に無い”)←そこをカバーするため利用規約に【知人の話はNG】としているところです。
あれれ?結果論ってことなるとさっきの野球のたとえはどうなるの?
答えは簡単です、
野球の一試合もまた「シーズン全体の優勝」から見ればミクロであり(その試合に勝ったがリリーフ投手を酷使して故障したのでは意味が無い)、
人類ヒト科の人生を考える場合、「命ある間どう生きるか」ってまあ長期戦ですし(何段階かに区切る人もいるだろけど)、
●逆にコアな話をするなら、
「勝った負けたは時の運」←「人事を尽くして天命を待つ」しかできないからです(人としての関りはこれがMAX)。=自我論的に自我がやれることは、戦略を立て戦術を立案し実行するまでであり(そこが本番)実際どうだったのかは「時の運なので考えても仕方がない(どうだっていい)」からです。
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この行動選択が、「戦術論は戦略に合致しその戦略は戦況判断として大局に対し合理的だ」であるか否かってのが、自我の実存率を高めます。
(簡単に言えば、バカみたいなことばかりしてると自分の存在証明もできない《そのバカがユニークとかサブカル・オルタナって意味だと違うけど》)←自分が生きていることを自覚できなくなるってこと
<<<心理系のテーマで言えばさ>>>
「個別の誰それとの関係性が思うようにいかない(相互に誤解が連発する)」としましょうか、
この時、真っ先に考えるべきことは、
その関係性の場が特定社会であれば、社会との関係性はどうなのか?(自分はどういうつもりで当該社会と関係しようという戦略があるのか?)そこから考えないと意味が無い。
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「スライダーはどう打てばいいですか?」←これだけだと質問になってない
(チームが試合に勝つって大局をまずあなたはどう考えていて《あなたの打順は求められてる戦術は?》、どういう状況のスライダーで、その時のボールカウントは?、更に言えばあなたは右打者左打者?配球としてインサイド直球の後のスライダー?それともカウント取ってくる外スラ?打点のある状況?それとも出塁を求められている状況?)
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■上記括弧のマクロ視点(全体像を見たときの判断)抜きにして、個別各論を考えることに1mmの意味も無いんです。
「そもそも、なにがしたいのか?」すら明示されていないのですから。
(スライダーが打てますか?だけだと自我全体を関連付ける意味《自分の事である意味》を失う《単なるマニュアル》)
すると「技術論なんです」言うご意見もあるでしょう、
しかしそれは「打撃練習で打てればいいってこと?」になってしまう、
試合でとなれば、状況が全然違うので前述の括弧書きの全体像抜きに説明ができない。
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■元のテーマに戻してさ、
「個別の誰それとの関係性が思うようにいかない(相互に誤解が連発する)」を仮に個別の技術論で解決したとしても、その場が社会を構成している場合相手の出方は常に状況に応じて変化するのだから「単純な技術論で対応できるのは何日何時何分の何々を言ってる時の誰への対応」だけに終わってしまい、継続性が皆無だってことだよ。
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タグ:強迫心理