■勿論、誰しもが所謂一般教養的な科目に興味がある訳でも無く(少なくとも理系・文系の分岐はかなり早期からある)、体育スポーツも知的教育ジャンルです。極端な画一性には意味ありませんから中学校から「一般教養枠と選択枠」を切り分ける手もあるでしょう。
「教師の負担が大変?」→だから大学のような講義のオープン化とクラス(階級)編成の廃止をやれと言っとんのです(担任教師制も自動的に廃止《代わりにカウンセラーを集中配置せよ》)。
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「ひとりも子供が学校こなくなったらどうする?」→なら地域社会にも開放しなさいよ(学区の大人は全年齢参加可能《警備会社でもいいが、変態の侵入を抑止するため警察の巡回を条件にせよ》)
「子供の教育の権利が云々?」→「人を年齢で差別するなよ、それから子供時代行かずに失敗したと思えばその子も、大人になってから社会人枠で参加できるだろが」
※単位制にして10年かけて3年課程卒業なんてコースがあってもいい
●点差が無くて優秀な人材をどう判断するのか?
これはさ、前述の「関心がどこまであるのか」で判別つくじゃん。
(最先端まで行きたい奴はいかせたらいい《本当に能力無ければついていけず辞めるでしょ》)
「暗記能力だけは凄いが、専門性に関心があるワケではない」←これをエリートと定義するのも同じぐらい危険だと思うぞ(今、霞が関界隈ではそうなってる)。
以前にも書いたけどさ(これ道庁の話な)、
人事課ではキャリア官僚の4分の1は使えない人材だと割り切ってる(予め飛ばし先の枠を用意するほど)正直なところ「通常の職員より意味の分からない人材が多い」と困惑するのにも”もう慣れた”ってな具合で(その筋からの直接の情報)、戦力化率的には現状でも相当にヤバイことになってるのは事実だ。
■個人的意見ですが「DQN階層への(”できない子”の捏造や)追い込みは、
地方経済のなんとやら」とかに及ぶほどの大問題だと思ってます。
※《一部推論ですが》地域に対するアイデンティティーを持つことはおかしくないどころか、”再選択保守”なんて話になれば根幹となる伝統文化の鍵で(リベラル保守でもまず日本語日本人とかって動かないところだし)、なんとなく保守であれば地方に残ることは合理的であって(有力大学人材を背景とする都市と違う)特有の個性を発揮する可能性がある。
DQNだから地方がダメなのでは無くて、「都市文明を優先させる中”地方を置き去りに”する流れで、”できない子”のレッテルを貼って地方全体をDQN化に追い込んだ」ようにも見える(高度成長期、都市建設の多くが地方の出稼ぎによるものだったのにだ)。
(最後はメディアの思惑どおりKポップや韓流ファンにされちゃってさ、、《こっちが憂鬱になるが、このモデルは「GHQとジャニーズと芸能界と広告会社とメディア」プロパガンダ戦術だから、昔からやってんだよね「韓国はそれを模倣し得意の整形しただけで」》)
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