記憶の個別具体論を論じても大きな意味は無く(これが結果論には意味がないって話)
記憶の決定的な違いは「エピソード記憶か、忘れてもいい一般記憶か」の差異です。
(いいとか悪いとか、快も不快でもいいですが、「しょっぱい忘れてもいい一般記憶にはそんなフラグすら発生しないのだから」)
決定的なのは「(記憶の個別具体性では無く)エピソード記憶か否かである」
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心理学の原則:『快・不快原則』
(脳はそれが『興奮』伴っているかしかわからず、快か不快なのかの判定ができない)
「そらそうだ、明日それを快と言うのか不快と言うのかすらワカラナイのだから」
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「あらまあどうして〇〇ちゃんは食べないの?この苦みがと〜っても美味しいのよ」
(この概念に”適応”すると、「食べられるようになり、数年もすると旨いと思う」)
それが快か不快か、「子供人格と大人人格で評価が逆さまになる」ことすらある。
「それは不快で耐えられない屈辱だ」という知見のある行為に該当すると?
凄く不快になりますが、
最初から”それがどうした”って知見である場合、何がどうしても何とも思わない。
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「僕はどうしても東大に入るんだという知見がある」と受験に落ちることは屈辱ですが、
「一流大学とかクソの意味も無いと最初から思ってる人は」四流大学の合否にも一喜一憂しない
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●普遍的に不快であると決まった概念など無い
(宗教性によっては、死すら祝福である)
ふと思うんですよ
「本当に”被害妄想”なんて現象がこの世に存在するだろうか?(それ可能?)」
そもそも普遍的な被害事象などという概念は存在しないってのに(そらさ程度の問題はあるけどさ原則論としてはそうなるじゃんよ)
※破産を機会に心機一転出直す人もいれば、絶望する者もいる
主観的感情があるという感覚も、その時知ってる概念に(リビドーが)投射された結果なのではないか?
快・不快分類前にはその時知ってる概念が(ピーマンは食べ物で美味しい)、さらにその前には分類以前の『興奮』が(刺激的味だ)、
更にその前には”非言語時代《自我以前》”の動物的認知(苦くてマズい毒だ)があるのだろう。
(快・不快の分類は自我が主体的に選択しているのでは無く、その時知ってる知見の範囲によって『興奮』が投射しやすい概念へその都度展開しているのであり《典型例:人種偏見》、基本原則として「それだけでは本音とはいえない《幻想である》」)
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さて、この場合「本音(『自意識』マター)とは何によって証明可能か」と考えた場合
「結果の独自性では無く、獲得した知見の独自性によってのみ証明される」
(●これは個人自由主義における『単独者』論を証明すると同時に、●地域性に限定して派生される「保守系ナショナリズム『共同幻想』の固有伝統性」も証明している《地域人格》●更にグローバリズム全体主義の非実存性を証明する《幻想でしかない人格》)
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