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心理学的に言えば、トラブルというか当人が悩みや不都合を訴えている場合、
その発端は「強迫心理」であり(自分自身の『自意識』で自問自答できない聖域化された前提条件)、コミュケーションの問題ではありません。
発端となる「強迫心理」がどういうものかって、
「強迫心理とは、(主として時制的に子供時代になるが《PTSDは別》)”家幻想”であるとか”閉鎖的子供社会などで《文科省の愚策でクラス運営が続いていたため》”、関係性の継続が自分の命運に直結してしまうという錯覚のこと《子供の場合必然的に大人に比べコンプレックスを派生させる環境にある》」←だいたいこんな感じの理解でいいと思う。
●前述のように、その社会環境は子供特有のもので、通常は大人になった段階で解除されるのだが(なにかこう適応し関係を継続すべき既存の社会環境などというものは大人社会には無いですから《嫌なら辞めるなり引っ越すなりできる》)、
仮に職場やなんとか教室でもなんでもいいですが、いきがかり上関係すべき社会があった時に、
「自分がどう思われているのかなど過剰に気にしてしまうこと」でもある。
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ちょっとわかり難いんだが、後者は二次派生的に起きている。
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前段の設定(「強迫心理」)があるために、
フラグの立っている社会で「好感なり、こういう風に見られていないとダメだ」などのように思い込み(設定上関係性の破綻は命運に関わるとされているため)、容姿のことを気にしたり(醜形恐怖もその派生)、絵にかいたような良好な友人関係が約束される認定に拘ってみたり(思いつく限り”やれ何々がダメだからそうなっていない”など誤解が連鎖)、逆に強面を装ってみたり(アクセサリーやブランド関係などに執着するのも二次派生)、とにかく「的外れなことに執着してしまう状態のこと」です。
■実際の話
大人になって得られる”快感代謝”の日常性ってのは、
何か殊更の幸福などある筈も無く(凄く単純な話だが「結婚すると自由恋愛できなくなる《不倫と言われる》」←何事もトレードオフであって)、何か気ままにいけないだろうかってそこは個人のアイデアであってだね(この辺で十分だと思えば「歩留り」選択もアリ)、
何かを約束される人格などありません(幸せそうに見える人にも気苦労あるのであってだな)。
【錯覚の背景】はだね、
子供の場合に限って言えば(ほぼ快感代謝を受益する側だから)家長権威に何らかの理由で特別に気に入られれば特別贔屓される可能性も無いじゃないでしょ(それも実際の話は本人努力もあってのことだと思うんだが、、)。逆に言えば”何をしても嫌われていたらいいことが無い”と思い込めるじゃんよ。
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そこで、「あー嫌われているからだ、好かれているからいんでしょ」みたいな落とし込みになるんです。
(「強迫心理」の派生で起きがちな錯覚)
するとね、「好かれるにはどうすればいいんだ」「何がどうだから嫌われるに決まっている」などなど、あられもない方向に執着してしまったりするワケ(現象としては「どうしてもそういうことを考えてしまう」など)
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